『まどろみに誘われたら』
「おっそいなぁ……」
静かな部屋の中に、苛立ち混じりの声が響く。
声の主は、テーブルに頬杖をつく一人の少女。
彼女は先ほどから頬を膨らませたままで、不機嫌さを隠そうともしていない。瞳はガラス戸へと向けられていたが、きつい視線はまるでそこにいない誰かを睨みつけるようであった。
片手で肩までかかる栗色の髪を弄りながらも、少女の視線は揺るがない。窓辺に止まっていた鳥たちも剣呑な気配を感じ取ったらしく、さっさと飛び立ってしまってからは寄り付こうともしなかった。
「はぁ」
眉間にしわを寄せ、窓の外を睨んでいた少女だったが、やがて諦め交じりの息を吐き、テーブルへと突っ伏した。天板の上に、髪が広がる。
髪が乱れるのにも構わず、少女――フィオはもう一度、長々と溜息を吐き出す。
「はぁ〜」
子どもの面影をいまだ残す容貌と、小柄ながらも女の特徴を備えだした身体。その微妙なバランスが十代半ばの少女が持つ、独特の魅力を作り出している。絶世の美人とまではいかないが、少女の容貌は目鼻立ちのはっきりとした顔とスタイルとが相まって、人目を惹き付けるには十分なものを持っている。
彼女が笑顔を浮かべれば、道行く人が目を向けるだろうことは想像に難くない。
もっとも、今の彼女は別の意味で人目を引くだろうが。
口をへの字に曲げ、頬を膨らませたフィオの姿は拗ねた子どもそのままだった。そのせいか、実際の年齢よりも受ける印象はずいぶんと幼く感じる。
だが、そんな見た目に反し、フィオの職業は冒険者――あちこちの洞窟やダンジョンを探索し、時には荒事にも関わる命がけのものだった。
いまだベテラン、とまではいえないが、パートナーと共にこの稼業に身を染めてから、彼女もそれなりの場数は踏んできている。今のところ大きな成功はないが、大きな失敗もなく、そこそこ順調に旅を続けてきた。それだけでも、彼女の能力の証明になっている。
この町も、彼女たちにとっては単に旅の途中に立ち寄った場所に過ぎず、いつものように一夜を過ごして後にするだけだったのだが……。
「う〜……」
うなるような声とともにテーブルから顔を上げたフィオは、再び窓の外に目を向ける。
だがその瞳に映るのは、代わり映えのしない空と穏やかな町並みだけだった。
「うぅぅ〜……」
胸中でもてあました苛立ちをぶつけるかのように、少女の細い指がテーブルを叩き出す。
爪が木の天板に当たるかつかつという音を響かせ、彼女は窓から視線を外し、室内を見やった。
大人二人にはやや手狭な部屋の中には、彼女の座る椅子とテーブルと、小物を入れるだけの小さな引き出し。ほかには申し訳程度の調度品しかない。
ベッドも木製の簡素なもので、内装としては典型的な冒険者御用達の宿の一室である。置かれた調度品の程度を見れば、宿賃は推して知るべし、といったところだ。
「はぁ〜あ」
部屋をいくら眺めようと、少女の退屈は紛れてはくれなかった。
もう何度目かも分からない溜息を吐き、少女は視線を戻そうとして、その途中で壁にかけられたコートに目が止まった。
無造作に壁に打ち付けられた釘から下がるハンガー。そこには風雨で色褪せ、くたびれたコートが掛かっている。
「ったく、もう……」
彼女はコートと、そのすぐ側に転がされたバッグを共に睨み、不機嫌さを増した声で呟く。
恨めしげな少女の声は、まるでコートを通じて、その持ち主に呪詛をかけるかのようでもあった。
それもそのはず、フィオがこの退屈な留守番をさせられている元凶こそが、コートの持ち主である青年――ルベルトなのだから。
「ったく、わたしのことなんてちーっとも考えないんだから。自分勝手すぎるわよあいつ」
コートを見つめるうちに湧き上がってきた文句をフィオは口を尖らせ、ここにいない相手にぶつける。主のいないコートはただ、少女の浴びせる文句を受け止めていた。
そもそもの事の起こりは数時間前。二人がこの町で宿を取ったところから始まる。
旅の途中で辿り着いたこの町で無事に宿を見つけ、部屋に荷物を置いて一息。
そこまではよかったのだ。
が、件の青年はいきなり「その辺ぶらついてくる」と言い放ち、フィオのことなどまったく気にせずさっさとどこかへ行ってしまったのである。フィオはその行動を引き止めるどころか、文句の一言も言うことが出来なかった。彼女が我に返ったときには、ただ半開きのドアが見えただけだった。
出かけることについては、まあいい。必要な消耗品の買出しを頼めなかったも、まだ許せる。
問題は、彼がまがりなりにも恋人である自分を置き去りに一人で行ってしまったことだ。それが余計に彼女の苛立ちを加速させていた。
が、いつまでも当初の怒りが持続するわけもなく。現在のフィオの胸中を占めるのは苛立ちとはまた別のものだった。
「何よ、わたしも誘ってくれたっていいじゃないの。散歩なら、わたしだって、一緒に……」
無意識に呟いた言葉に、怒りよりも寂しさが滲む。
気を紛らわせようにも一人きりの部屋では上手く行かず、ふとした弾みに青年のことを思い浮かべてしまう。
窓の外へと目を向ければいつしか空は黄昏色から夜色へと変わり、夕日は町の向こうに沈もうとしている。青年が部屋を出て行ってから、もうかなりの時間が経っていた。
「どこまでいったんだろ」
フィオは背もたれに寄りかかり、背を逸らしてぼやく。
こんなことなら、彼が町に出ると言い出したときに無理やりにでも付いていくんだった。
もしくはいっそのこと、彼を追いかけて自分も出かけてしまえばよかったかもしれない。
「あ〜あ、しくじったなあ」
けれど、今から出かけるには時間が遅くなりすぎた。
それに今出かけたら、帰ってきたルベルトと行き違いになってしまうかも知れない。
いや、正直なところ、別に彼の帰りを待っていなければいけないわけではないのだけれど。
「荷物置きっぱなしだと、無用心だしね」
誰に言うでもなく、フィオは口にする。
どことなく言い訳がましい言葉になったのは、無意識の寂しさ。それを指摘する相手がいなかったのは、彼女にとって幸運だった。
それに、実際のところ――貧乏冒険者である彼女たちが泊まれるようなこの宿では、部屋の鍵こそ付いているが――所持品の管理は自己責任である。彼女たちに二部屋借りる金銭的余裕はなかったので、片方が出かけてしまうと残った方が荷物番をしなければならないのは必然であった。
「でももうちょっと、残る人のことを考えてもいいと思うけど」
いまだ不満は消えず、ぶつぶつと零すフィオ。
「あー、もう! なんでこんなにもやもやするかなあ……」
眉間に皺を刻み、少女はしばらくあれやこれやと青年への文句を並べ立てる。愚痴でも吐き出せば多少なりとも気が晴れるかと思ったのだが、結局そんなことはなかった。むしろ虚しくなってきたので、精神の安定のため、詮無い文句を言うのは止めることにした。
「あーあ、結局は待つしかない、か……」
少女は投げやり気味に呟き、椅子に座り直した。退屈で死にそうではあるが、結局は留守番という役目を果たすしかないと悟ったのだった。
幾人もの客に座られ、平べったくなったクッションは最早その体をなしておらず、固い椅子の感触を和らげてはくれなかった。
そもそも、部屋に備え付けの椅子自体、見た目から想像できる通りの座り心地なのだ。とてもではないが何時間も座りたいとは思えないものだし、現にずっと座りっぱなしのせいでお尻が痛くなってきている。安宿だから、仕方ないのだろう。
「それにしても、おそいなぁ……どこ、ほっつき歩いてるんだろう……」
好奇心旺盛なあの青年が旅先であちこちをうろうろするのはいつものことであり、それ自体は珍しくもなんともない。そんな彼と組んで旅をしているのだから、フィオも慣れてはいるのだが、今回はいつにもまして帰りが遅い。
ちょっとくらいなら我慢も出来ようが、流石にこうも長時間の留守番をさせられるとなると話は違ってくる。
「あーまたいらいらしてきた」
もう不貞寝でもしようか、と思い始めたフィオの頭の片隅に、ふと、小さな疑念が浮かぶ。
「……まさか、何かあったとかじゃないでしょうね?」
が、彼女はすぐに頭を振り、その考えを否定する。
「いや、それはないか」
いくら「あのルベルト」でも、町中で揉め事を起こしたり巻き込まれたりするほど間抜けではないだろう。そこまで抜けているような相手とは、とてもじゃないが冒険では組めたものではない。
「どうせまた、出店にでも引っかかっているんでしょうね」
呆れ声で呟く。フィオより年上の癖に、妙に子どもっぽいところがある彼なら不思議でもない。
と、そこまで考えたところで、足音が彼女の耳に届いた。どうやら誰かが階段を上がってきているようだ。
「ん?」
フィオが視線をドアへと向けると、ちょうど慌しい足音が部屋の前で止まる。
ほぼ同時に、聞き慣れた男の声が響いた。
「おーいフィオ、戻ったぞー」
「……やっと帰ってきたわね」
怒りよりも呆れを滲ませながら呟き、フィオは椅子から腰を上げた。とりあえず気の済むまで文句を言ってやろうと考えながら扉へと向かう。
「遅いよー」
鍵を外し、向こう側に立っているであろう青年へとフィオは声を投げかける。
だが彼女に返ってきたのは、まったく悪びれた様子もないルベルトの言葉だった。
「すまんすまん。あ、悪い、手がふさがってるんだ、ドア開けてくれー」
フィオも半ば予想していたが、青年の調子は良くも悪くもいつも通り。流石に怒りこそしなかったが、
少女は溜息をつきたくなり、脱力しながら扉を開ける。
と、ルベルトの顔ではなく、真っ白い布が彼女の視界一面を覆った。
「は? なに、これ?」
一瞬ぽかんとしたものの、すぐにそれは彼が抱えていた大きな包みだと気付く。
「お土産だぞー」
得意気な声が、包みの向こうから聞こえる。
大人が一抱えにするような、紐で縛られた大きな物体。確かにこれを両手で抱えては、ドアも開けられないだろう。
だがその大きさに反して、見た目はそれ程重そうではない。そもそも、ルベルト一人でここまで運んでこられたのだから、実際に重さはさほどでもないはずだ。
興味と疑問が半々に混ざった視線で、フィオは荷物を眺める。
それに気付いたのか、部屋に入ったルベルトは荷物を置くと、彼女に答えた。
「あ、これ? 布団だよ、布団」
「布団〜?」
「そうそう」
訝しげに繰り返すフィオに、ルベルトが頷く。
「一通り町を見て宿に戻ろうと思ったら、途中に行商人がいてさ。ちょっと買ってみた」
「そう、行商人からね……って買ったぁ!? これを!?」
軽い調子のルベルトの言葉にフィオは思わず頷きかけたが、聞き逃せない内容に思わず声を上げた。
「あ、ああ」
ずかずかと詰め寄る少女にやや気圧されながら、ルベルトが応えた。
少女はそんな彼を見つめ、にこりと微笑む。
だがそれも一瞬のことだった。
「ちょっとぉ! 何で断りもなくそういうことするわけ!? しかも布団って! あんた私たちが旅暮らしの冒険者ってことわかってないの!? どうしてわざわざ荷物になるようなもの買ってくるのよ!?」
笑顔から一転、眦を吊り上げた少女が一気にまくし立てる。先ほどまでの不満や苛々も手伝って、びりびりと空気、いや建物自体を震わせるかのような大声が轟いた。
至近距離から耳を貫かれ、青年は思わず顔をしかめる。
「ちょ、お、大声出すなよ……」
「誰のせいよ!」
「いや、それは……俺のせい、か?」
「他に誰がいるのよっ! ああ、もう……っ!」
「す、すまん」
ルベルトは弁解に何を言ったところで火に油だと悟り、謝罪の言葉だけを言うと口をつぐんだ。最初の叫び声がいまだに頭を揺さぶるのか、ふらつく頭を振り、降参とばかりに力なく両手を上げる。
「ふぅ……っ」
一方のフィオも募る怒りをなんとか鎮め、自分を落ち着かせようと息を吐き出す。それでもまだ胸のうちに溜まった不満は出し切れないのか、腰に手を当て彼を睨んだ。射抜くような視線にルベルトがびくりと縮こまる。
「にしても……」
フィオは改めて彼が買ってきた荷物に目を向け、先ほどとは一転、がっくりと肩を落とし、途方にくれた声で呟く。
「どうすんのよこれ……持ち歩くの? めちゃくちゃ邪魔じゃない……」
「あ、いや……それは、そうなんだが……」
今更ながらにその問題に気付いたのか、答えるルベルトの声にも力がない。
それもそうだろう。部屋の真ん中に置かれた包みは、旅暮らしの彼女たちにはとてもではないが持ち歩けそうにない大きさだ。確かに野宿する際に寝具の類があれば便利なのかもしれないが、目の前にある包みは持ち運ぶにはかさばりすぎる。
かといって、なけなしの金を使ったものを一夜限りでこの宿においていくのも癪な気がする。
そこまで考え、フィオは一番重要な問題に気付いた。
「いやその前にいくらよこれ……」
「え、えーとだな……」
露骨に目を逸らし、汗を浮かべるルベルト。視線の圧力に耐えかね、乾いた笑いを浮かべる。
フィオはそんな彼をじとりと睨み、大きな溜息を吐き出した。
「まったく……この間の稼ぎ、あとどれだけ残ってるのか、誰かさんは分かってるのかしらね?」
「う……」
「そういえば、武具の修理と消耗品の補充もしないといけないんだっけ。また、お金が掛かるわね……。それなのにどっかの誰かさんがまた衝動買いしてくるし」
「うっ……ぐ」
ちらりちらりと視線を向けながらの明らかな非難に、流石に罪悪感を覚えたらしいルベルトが胸を押さえてよろめく。
そんな彼に、多少は溜飲を下げたフィオだったが、肝心の部分をはっきりさせようと腰に手を当て、青年にさらに詰め寄った。
「何で買ったの」
「その、えっと……」
表情こそ変わらないが、少女の全身からにじみ出る圧力に青年が後ずさる。
「ねえ、何で買ったの」
「いや……なんとなく、買わないと損だと……」
重ねて発せられた問いに、ばつの悪そうな顔で答えるルベルト。
「はぁっ!? 何よそれ!」
「いや、本当だって、一目見た瞬間に買うしかないって思ったんだよ! そう、魔法にでも掛かったみたいに!」
青年はなおも追撃をしようと口を開きかけたフィオを制し、慌てて言葉を発した。それ以上の責めを逃れようと、必死で言葉を紡ぐ。
「適当なこと言ったってごまかされないんだからね! そんなことあるわけないでしょ!」
「確かに、今思うと妙なんだが、これは何が何でも買わないといけないと思ったというか……」
「何それ……意味分からないんだけど」
「いやあ、俺もそう思う……」
怒りと呆れをない交ぜにした顔で言うフィオに、ぎこちない愛想笑いを浮かべるルベルト。
そんな青年に視線だけで圧力をかけながら、フィオはさらに質問を加える。
「で、これいくらしたのよ?」
まさかこれだけで素寒貧になるような値段ではないと信じたいが、ルベルトなら衝動的に欲しくなったものに所持金を全額つぎ込んでもおかしくない。
その辺り、男の金銭感覚というものはよく分からないと、フィオはつくづく思っていた。
が、そんな少女の心配をよそに、ルベルトは拍子抜けするほどあっさりと答える。
「ああ、値段なら心配しなくていいよ。思ったよりは安かったし」
「そうなの?」
「ああ」
彼の答えに、フィオは無意識に安堵の息を吐き出す。
「いくら?」
「ええと、確か……」
「そう、それくらならまあ……」
聞き出してみると、件の毛布はフィオが恐れていたよりも桁が二つは少なかった。ルベルトに嘘をついている様子はないから、おそらく本当にたいしたことのない値段だったのだろう。もし嘘をついていたとしても、それくらい見抜けない仲でもない。
念のためにルベルトから財布を受け取り、中身を検めてみるが、確かにそれ程減っているわけではなかった。値段は破格といっていいほどだ。むしろ安すぎて不安になってくるほどである。
「ふぅん、本当みたいね」
「だ、だからそう言ってるだろ」
「でも安すぎない? ……騙されたんじゃないでしょうね」
「いやいや、そんなことないって。ちゃんとした品だよ」
フィオに睨まれ、ルベルトは慌てた様子で否定する。
「そう言われても信用できないんだけど……」
「まあ商人は確かに異国風の、見たことない服装の女の子だったけど……あれはジパングの衣装なのかなあ。でも人を騙すような子には見えなかったし」
「……女の子、ねぇ」
何気なく発した青年の言葉に、フィオの眉がぴくりと反応した。
が、ルベルトはそれに気付いた様子はなく、言葉を続ける。
「そう、ちっこい身体で大きな荷物抱えててさ。それがまた可愛いかったな」
「なるほど、可愛い子、ねぇ……」
「そうそう。そういえば、その子の衣装の胸のとこ、愛嬌のある動物が描かれててさ」
「へぇ……」
「それがまた人懐っこい彼女の雰囲気とよく似合ってたんだよな」
「ふぅん……、よーく見てたわけね、その女の子のこと」
先ほどよりもさらに底冷えのするようなフィオの声に、調子よく紡がれていたルベルトの言葉が止まる。
「あっ、いや……」
青年が冷や汗を垂らしながら少女の表情を窺うと、声の調子とは裏腹に、その口元にはいっそ穏やかともいえる微笑が浮かんでいた。思わず安堵しかけたルベルトだったが、すぐにフィオの目が笑っていないことに気付く。
「えっと……その……」
じっと注がれる視線は氷のように冷たく、睨まれたルベルトの顔が引きつる。まるで室内の温度すら零下に下がってしまったように錯覚し、青年の体は無意識に震えた。そのくせ、汗だけは後から後から滲み出てくる。
「その……フィオ? これはそういうわけではなく……」
ぎこちなく愛想笑いを浮かべながら、ルベルトは必死に弁解しようとする。が、少女にじとりとした視線を向けられると、その言葉は力なく消えていった。
フィオは縮こまる青年から視線を外すと、大きな溜息を吐いた。
「本当に、その売り子の可愛さにほだされたんじゃないでしょうね?」
詰問というほどではないが、その声の裏に隠された少女の苛立ちを敏感に察知したルベルトはこくこくと大きく首を振った。
「はぁ……っ」
視界の片隅でその姿を見、再度大きく息を吐き出す。ルベルトの体がひときわ大きく震えたが、少女はそれに構わず、どこか独り言のように呟いた。
「そーよね、あんたっていっつもそう」
フィオの言葉、その響きに何かを感じ取ったのか、ルベルトは戸惑いながらも声をかける。
「お、おいフィオ?」
しかしフィオは彼の声が聞こえていないのか、反応することなくただ言葉を続ける。
「いっつも一人で勝手にどこか行っちゃうし、ちょっとかわいい子と見ればすぐでれでれするし、人の話を聞かないばかりか何をするにも後先考えないし……」
「あー、それは、その……」
少女の言葉に思うところはあるのだろう、青年はばつのわるそうな顔を浮かべ、頭をかく。
「恋人同士になったって……一緒に旅したって……、これじゃ意味ないじゃない……」
「え? ごめん、聞こえなかった」
最後に呟いたその声は、あまりにも小さすぎて言葉にはならなかったらしい。聞き返したルベルトの声に、我に返ったフィオは一瞬で顔を真っ赤にすると、反射的に大声を上げた。
「な、なんでもないっ!」
「なんでもないわけないだろ。なんだよ、さっきの」
「なんでもないっての! 放っておいて!」
「放っておけって……」
「あーもう、いいから! とにかく出てって!」
妙にしつこく食い下がるルベルトに、フィオが叫ぶ。
なおも納得のいかない表情を浮かべていた青年だったが、これ以上声をかけても逆効果だと悟ったようだった。彼はドアへと向かうと取っ手に手をかけ、最後に一度振り返る。
「じゃ、じゃあ俺……下にいるからさ……」
気まずそうにしたまま、そう言葉を残してルベルトが部屋を後にする。
静かにドアが閉まると、後にはフィオ一人が残されるのだった。
青年が部屋を出てからしばし。
ようやく落ち着いたフィオは、よろよろと椅子に腰を下ろし、そっと呟いた。
「はぁ……またやっちゃった……」
考えまいとしても頭が勝手に先ほどの光景を思い返してしまい、フィオは自己嫌悪に沈みながら机に突っ伏した。
「冷静に考えれば、あいつが浮気なんてするはずないんだけどね……」
そもそも、ルベルトにそんな甲斐性は無い。それは、冒険者になる前からの付き合いであるフィオには分かる。さっきの言葉も、ただ単に可愛らしい売り子に対しての素直な感想を言っただけなのだろう。だから、フィオの方も軽く流してしまえばよかったのだ。
それを分かっていながら責めてしまったのは、やっぱり不安と不満があったからだ。
それは恋人をほったらかしにしていたルベルトに対するものでもあり、それと同時に素直になれない自分に対するものでもある。
実際、ルベルトとの衝突――というよりも、フィオが一方的にかんしゃくを起こしてしまうものが大半だが――は珍しくもない。
そしてその度に、自分に嫌気が差すのである。
「何でいつも、ああいうことしちゃうかな……」
八つ当たり以外の何物でもない自分の行動に、ほとほと呆れる。いますぐ階下にいるルベルトのところに行って謝ればいいと頭では分かっているのだが、彼女の身体はまるで動こうとしなかった。
「本当、どうしようもないわ……」
自嘲気味に呟いた言葉も気を紛らわせる役には立たず、どこまでも沈み込もうとする暗鬱な気分が、身体に重く圧し掛かる。
「素直に好きって言ったり、甘えたり、できればいいのに……」
思い浮かぶのは、冒険者になろうと決めた日のこと。
恋仲にあったルベルトが外の世界を見るために村を出て行くと聞き、フィオは彼と一緒にいる、それだけのために、半ば駆け落ちにも近い形で故郷を出た。
思えば、あとにも先にもあれほど素直に行動したことはなかった気がする。それに、自分と彼とは確かに恋人同士ではあるけれど、その関係になっただけでそれ以降、何の進展もしていない。彼のせいだけではない。自分も、「恋人である」ということに甘えて、何もしてこなかったのだから。
「あーあ……」
考えれば考えるほど、自己嫌悪の沼に沈んでいく。何をする気もおきず、フィオは椅子に座ったまま部屋の中をぼんやりと眺めた。
ちらりと視線を動かすと、部屋の真ん中に置かれたままの大きな包みが目に入った。
「布団、ねえ……」
騒動の元になった包みに、どこか恨みがましい視線をやりながら呟く。いっそのこと返品してやろうかとも思ったが、正直なところ、ルベルトが思わず衝動買いしてしまったという品にへの興味もあった。
フィオは椅子から立ち上がり、包みを見下ろす。
「まあ安かったみたいだし、たいしたものじゃないでしょうけど」
そう言いながらも好奇心には勝てず、彼女は紐を解いていった。がさりと音を立てて包装用の布が開かれると、折り畳まれた分厚い布が姿を現す。
「わ……」
さっきまでの暗鬱な気分はどこへやら。
想像以上に見事な品に思わず目を奪われたフィオは、無意識に感嘆を声に出した。
確かに、それほど見事な品だった。
見た感じは布団というより、毛布といったほうがしっくりくる。素人のフィオでも、一目見ただけでかなりの上物と分かった。柔らかな毛糸を丁寧に織って作られた毛布は、ほのかな黄金色に染まっている。気のせいか、毛布自体がほのかな光を放っているようだ。
「綺麗……」
まるで引き寄せられるように、フィオはそっと毛布に触れる。
毛布は彼女の手を優しく包み、柔らかな感触が指先に伝わる。見た目も相まって、まるで雲に触れているようだ。なんだか、触れるたびに心中のもやもやが晴れるような気さえした。
「ふぁ、すごい。ふかふか」
しばし夢中になって心地よい羊毛の感触を楽しむ。
それにしても、なぜこんな上物を露天商が持っていたのだろう。商人ではないので、フィオもそれ程知識があるわけではないが、この毛布は明らかに場末の道具屋に並んでいるようなものではない。それに、品質に対して値段も安すぎる。もしちゃんとした店で買おうとすれば、とてもではないが彼女たちでは手が届かないはずだ。
「まあいいか。考えても分からないしね」
疑問はあったが、それを吹き飛ばすほどにこの毛布は魅力的だった。
触っただけでもこれほど心地いいと、ちょっとだけでも使い心地を試してみたくもなる。寝るにはまだ早すぎるが、明日の準備も急いでする必要はないし、少し横になるくらいなら構わないだろう。
「気分転換に不貞寝もいいかもしれないし」
フィオは誰にともなく言い、床に置かれたままの毛布を抱え上げる。
それにしても、この毛布は触れれば触れただけすばらしさを実感する。肌触り、温かさ、そのどれもがフィオにとって未体験のものだった。正直なところ、気を抜いたら頬に触れただけであまりの心地よさにそのまま眠ってしまいそうだ。
「よいしょ……っと」
声とともに、質素なベッドへと毛布を下ろす。手から離してからもなお、ふわふわの心地よい感触がフィオの肌に残っている。王宮の寝具でさえ、ここまで上等なものはそうそうないだろう。
確かに、ルベルトが買わないといけないと思ったという気持ちも、わからなくはない。
「本当にすごいわね、この柔らかさ……」
触れただけでもこれほど気持ちいいのだから、この毛布に包まって眠ったらどれほど心地よいのだろうか。想像しただけで、期待に胸が高鳴る。
ベッドの上の毛布をちらりと見、フィオは一人呟く。
「いい夢、見れそうよね……気分転換にもなるかもしれないし」
そう自分を正当化すると、フィオは毛布を手に取り、ベッドに広げた。ふわりと舞った毛布から、心なしか温かな匂いがしたような気がする。もしかして、この毛の持ち主だった羊のものだろうか。
「……ん〜」
簡単なベッドメイクを終えると、フィオは寝台を眺める。
少女の眼前では、何の変哲もない宿の寝台が、毛布一枚でがらりと姿を変えてしまっていた。
窓から射し込む夕日を受け、羊毛がうっすらと黄金色に輝き、ベッドの上に掛けられた毛布が、まるで雲海のようにも思える。
こうして見ているだけでも、まるで夢の中に誘われてしまいそうだ。何だか、毛布自体が彼女を手招きしているような気さえしてくる。
「うん」
ひとしきり眺め、フィオは満足げに頷く。
すぐにでも飛び込みたくなる気持ちを抑え、フィオは上着と靴、靴下を脱いでいく。それらを脱ぎ終わると、散らかった服を畳むのもそこそこに、少女はベッドに倒れこんだ。
ぼふんという音と共に、深く体が沈みこむ。
毛布の柔らかさと、頬に当たる温かさがフィオを満たした。思わず頬ずりをすると、織り込まれた羊毛が彼女を優しく撫でる。
「うわぁ……すご、これ、気持ちよすぎ……」
想像以上の心地よさにうっとりと頬を緩め、フィオは声を漏らす。
陽射しのぬくもりが残る毛布は優しく彼女を抱き、横になっているだけでも旅の疲れが癒されていくようだった。この気持ちよさを失うのが惜しくて、このまま永遠に起き上がることさえ出来なくなりそうだ。
「うふふ〜」
心を満たす幸せに満面の笑顔を浮かべ、毛布に包まった少女はベッドの上でごろごろと転がった。
だが、不意にかすかな違和感を覚え、彼女は動きを止める。
「あれ……?」
何だか、体の感覚が鈍い。
ふわふわと浮き上がっていくような、それでいて水底に沈んでいくような感覚がいつの間にか全身を包んでいる。意識にも薄い膜がかかったように、ぼんやりとした頭は上手く考えをまとめられない。
けれどそれは決して不快なものではなかった。むしろ、そのまま全てを委ねてしまいたくなるような、甘いものを感じる。
「なんだろ……、急に、ねむ、く……?」
呟く声もまた、弱弱しく途切れる。
その正体が、いつの間にか自分を包んでいた強烈な睡魔だと、鈍った頭がようやく理解する。
しかし遅かった。既に体は指一本動かせないほど重くなり、少女の意思に反して瞼は鉛のように重く、段々と下りていく。
意識してなければ――いや、意識していてもなお、眠気は身体に、頭ににじわじわと染みこんでいく。もう目を開けていられない。ちょっとでも気が緩めば、そのまま一気に暗闇に呑まれてしまいそうになる。
「どうし、て……?」
奈落へと落ちようとする意識の片隅で、少女はほんのわずか、奇妙さを感じる。
いくら旅の疲れがあるとはいえ、またこの毛布が気持ちよすぎるとはいえ、こんなに急激に眠くなるものだろうか。
しかしその疑問も、すぐに眠りの誘惑に包まれ、ぼやけ、溶けていく。
「まず……い、起き、ないと……」
少女は何とか体を起こそうとするが、既に睡魔に支配された彼女の体がそれに応えることはなかった。
「あ……だ、め……」
本能的に何かを感じ、少女は拒絶の言葉を囁く。
だが津波のように押し寄せる眠気は、その声もを呑み込んでいった。誰にも届かない声は空しく虚空へと霧散する。
瞳が完全に閉じられ、彼女の視界は暗闇に閉ざされた。少女の全身から力が抜け、糸の切れた操り人形よろしく手足がだらりと投げ出される。それからほどして、かすかに開いた少女の口元からは穏やかな寝息が聞こえはじめた。
「すぅ……すぅ……」
規則正しい呼吸が、黄昏の残照から暗闇が色を増した部屋に響く。
それからしばし。少女が深い眠りに落ち、穏やかな時間が流れる部屋に、変化が現れはじめた。
フィオが横たわるベッドの周囲、その影が少しずつ薄れはじめた。毛布から音もなく立ち上るほのかな光が闇の中に浮かび、明滅を繰り返しながら少女を囲む。
静かに舞うのは蛍を思わせる丸い光。やがて揺らめく光は輝きを増し、部屋の中を染めていく。黄金色が少女の横顔を優しく照らし、夕焼けの海のように毛布を輝かせた。
いつしか眩しいほどになった光が、少女の横顔を照らす。けれども、瞳を閉じたままの少女に目覚めるそぶりはなかった。投げ出された手足はぴくりとも動かず、口からは規則正しい呼吸の音がただ繰り返される。
光は密度を増し、カーテンとなって少女を包む。
そんな幻想的ともいえる光景に、更なる変化が現れだす。
毛布から発せられていた光が不自然にうねりだし、あたかも意思を持つかのような動きで彼女の下へと集まり始めた。静かに流れが生まれ、ゆっくりと少女を中心に渦を巻いていく。
その中の一筋の光が頬を撫で、フィオの口から小さな声が漏れた。
「んっ……」
それを合図にしたかのように、部屋の中に満ちる光がいっせいにフィオへと集う。
柔らかな光は横たわる彼女の体を優しく包み、穏やかな寝顔を照らした。光が少女の身体を撫でると、身に纏った衣装は光に溶けるように消えていった。時折くすぐったそうに身をよじるうちに、生まれたままの姿がさらけ出される。
変化はそれだけに留まらない。
フィオを囲む光が、その体へとまとわりつき、少しずつ染み込み始めた。黄金が少女の中へと流れ込み、その内から体を満たしていく。心地良いのか、彼女の表情には笑みが浮かんでいた。
その間にも、毛布から光が浮かび上がり、渦を巻き、少女に注ぎ込まれていく。
快感に堪えきれず、むずかり、身じろぐ眠ったままのフィオから、声が漏れた。
「ふ、ぁ……っ」
それをきっかけに、少女自身に変化が生まれる。ベッドに広がる髪が輝き、栗色の髪の毛がその根元から白く染まりだす。同時にストレートの髪がふわりと浮くと、まるで羊を思わせるもこもこの毛に変わっていった。完全にくせっ毛になった髪は、静かにベッドに落ちる。純白の髪は部屋を満たす金の光を受け、うっすらと輝いた。
「ん……くぅ……、すぅ……」
フィオは己の体に起こった変化にも気付かず、ただ静かに眠り続ける。小さく開いた少女の口から発せられた呼吸には、幸せそうな響きが滲んでいた。
「んふ……ぅ」
生まれたままの姿を晒す彼女が、ごろりと寝返りをうつ。
その拍子に、少女の肌が艶を増し、うっすらと汗の浮いた肌に、艶かしい光沢が生まれ、瞬間、黒い皮が胸や腕、腰の辺りを覆う。どこかゴムを思わせる黒い皮膚は緩やかな曲線を描く体にぴっちりと密着し、女体のラインを強調する。部屋を満たす光に照らされ、てらてらと輝く少女の肌。一部を黒い皮膚に覆われたその姿は、不思議と裸体よりも扇情的に見えた。
「ふぁ……っ、ひゃぅぅ」
身体の変化が気持ちいいのか、フィオの口からは嬌声にも似た声が漏れる。彼女の頬にはうっすらと朱が差し、少しだけ荒くなった呼吸には熱を帯びだしていた。
「ふぅ……ぅ、はぁ……ん……」
くすぐったそうに、時折身じろぎをするフィオ。
変化は髪や肌だけに留まらず、さらに少女の姿を変えていった。
彼女の首や胸元、腰周りに白い毛が生まれ、見る間に肌を覆っていく。もこもこと膨らむように量を増した柔らかな毛は、まるで雲のように少女の肌を優しく包み込み、可愛らしく飾った。羊毛にくるまれた足の先からは、指の代わりにいつの間にか姿を変えた硬いひづめが覗いていた。
「ん、あぁん……っ」
歓喜を滲ませる声と共に、綿菓子を思わせる腰の毛の塊から柔らかな毛が一房飛び出した。ふわふわの尻尾が、嬉しそうにゆっくりと揺れる。
「うふふ……」
羊毛を纏ったような、奇妙な姿と化した自分の体を理解しているのか、それともいないのか。
夢に溺れたままのフィオは幸せそうな寝顔を浮かべている。緩んだ口元からは時折嬌声が漏れ、熱を帯びた息が吐き出されていた。閉じられたままの瞳には歓喜と快楽が生み出した涙が浮かび、零れた雫が上気した頬を伝う。
「あ……、や……っ、だめ、ぁ……っ」
嫌がる言葉とは裏腹に、フィオの表情や声には明らかな悦びが色濃く表れていた。はぁはぁと荒い息を吐き出し、快楽に身を任せ身じろぎするたびにベッドが軋む。その音に混じり、光の満ちる室内には淫靡な吐息が響いていた。
ふと、フィオの嬌声にかすかな変化が生まれる。
「はぁ……、うぅ、う……」
無意識に手で頭を抱え、少女は身悶えしながら身体を丸めた。尻尾が激しく振られ、時折体がびくびくと震える。必死に頭を押さえる手の下からは、何かが生まれようとし、少女は未知の感覚を堪えきれず、声にわずかな苦悶の色が混じる。
「んくぅん……っ!」
ついに堪えきれなくなったフィオが、ひときわ大きな声を上げる。同時に、声に応えるかのように彼女の頭からは金色の角が二本、その姿を現した。
「ふぁ、ん、あぁぁ……っ」
苦悶から一転、フィオが嬌声を上げる中、もこもこの髪の間から伸びだした角は、抑えつけようとする少女の手を押しのけ、ぐにぐにとその長さを増していく。
やがて完全に伸びきった黄金の角は、くるりと巻いて柔らかな髪を飾った。
「はぁ、あぁ……ぁ…………」
最後に少女が長い息を吐き出し、数度身じろぎすると、変身は終わったようだった。羊毛に包まれ、獣のそれとなった耳が少女の変身を喜ぶようにぱたぱたと動く。
いつの間にか室内に満ちていた黄金色の光は収まり、窓から射し込む夕日の残滓が横たわる少女を照らしている。その姿は先ほどまでとは全く異なり、完全に「人とは違う何か」へと変貌してしまっていた。
もし、その手の知識に詳しい者が今のフィオを見れば、彼女が変身したのが「ワーシープ」と呼ばれる存在だと気付いただろう。その名の示すとおり、それは羊の特徴を持つ獣人であり――人々には「魔物」と呼ばれる数多の種族のうちの一つである。
そう、ほんのわずかな間にフィオという名の少女は人ではなくなり――魔物と化してしまったのだ。
けれども、少女は己の身に起こったことを知ることなく、いまだ深い眠りの中にあった。
「すぅ……すぅ……」
魔物への変身が終わり落ち着いたのか、先ほどまでの熱のこもった呼吸も静かな寝息へと戻っていた。穏やかな横顔は――魔物へと変わってしまったとはいえ――先ほどまでのフィオそのままで、変わりはない。
「んっ……」
フィオが寝返りをうった拍子に、毛布が寝台からずれ落ちる。少女は毛布の裾をつかみ、そのまま羊毛に包まれた胸元に引き寄せ、かき抱いた。
「ん……もーふぅ……むにゃ……すぅ」
尻尾を揺らし、無意識のうちに耳をぴくりぴくりと動かしながら、フィオは規則正しい呼吸を繰り返す。どんな夢を見ているのか、眠り続ける少女は時折、緩めた口元から至福の声を響かせた。
「あは……ぁ……」
黄昏が夜へと変わろうとする薄暗い部屋の中で、羊となった少女は自らを包む柔らかな毛布と、楽しい夢に優しく抱かれるのだった。
不意に響いたノックの音が、室内に満ちる静寂を破った。
震える空気を感じ、羊の耳がぴくりと動く。ベッドの上で横たわる少女は外界からの音を遮るように耳をぺたりと伏せ、もぞもぞと身をよじった。黒い皮に包まれた手が、身体を包む毛布をしっかりと握り締める。
反応がなかったためか、再度ドアを叩く音。先ほどよりも大きなノックが、彼女の聴覚を刺激する。
「うぅ……ん〜……」
遂に観念したワーシープの少女――フィオは、けだるそうな声と共にゆっくりとその目を開く。上がっていく瞼の下から、薄いブルーが覗く。彼女はあちらこちらへと焦点のぼやけた視線を彷徨わせ、瞳に薄暗い室内を映す。
「ん〜……?」
少女は毛布を抱きしめながら、ぼんやりと部屋を眺め、次いで窓の外へと目を向ける。
既に時刻は夕から夜へと変わり、部屋の中は暗く闇に沈んでいる。その中で、家具の輪郭だけが影の濃淡として浮かび上がっていた。とはいえ、実際はそれほど長い時間眠っていたわけではなく、せいぜい、ほんの四半刻程度だろう。
「ん……ぅ……」
眠気はいまだ靄のようにまとわりつき、頭がはっきりしない。自分の置かれた状況や、寝てしまう前後の記憶もいまいち思い出せなかった。どうにも、まだ夢の中にいるような気さえしてくる。
フィオはベッドに横たわったまま、何度も目を瞬く。
「ふぁ……」
可愛らしいあくびを一つし、目を擦りながら身を起こす。両の腕を天井に突き出すようにして背筋を伸ばし、ぼんやりと室内に目を向ける。
と、フィオは何か、言いようのない違和感を覚えた。
「んぅ〜?」
部屋の中の何かが気になったのかと思い、もう一度部屋を見回すが、眠ってしまう前と特に変わった様子はない。特別目を惹くようなものなどない、ありふれた安宿の部屋である。
「何、かしら〜?」
少女が首を傾げた拍子に、露出した肩にふわふわの髪の毛が当たった。
瞬間、彼女は違和感が自分の体から来るものだと気付く。
何だか全身がふわふわとして、まるで宙に浮いているかのような感じ。心地よいはずのその感触が、頭と心のどこかに、かすかに引っかかっている。
取れそうで取れない、つかめそうでつかめない、そんなもどかしさ。ボタンを一つ掛け違ったような、些細な違いのようで、何かが決定的にずれているような気がする。
「なんだろ〜、変なの〜」
思わず呟いてみたものの、原因はさっぱり思いつかない。
半端なところで起こされたせいだろうか。もしかしたら、眠りが足りないせいで、頭がうまく回っていないのかもしれない。ベッドの上で柔らかな毛布を抱き寄せ、もう一度寝なおそうかなぁ、なんてことを考える。
その拍子に、またも大きなあくびが出てしまった。
「ふわぁ、ぁ……」
フィオは片手で口元を隠しながら、指先で目元に浮かんだ涙を拭う。
「ん〜……?」
再び、奇妙な違和感。
何だか一瞬、自分の手が自分のものでは無いような――本当の自分の手は、こんな姿じゃなかったような――気がした。
ごしごしと何度か目を擦り、ようやく焦点が合った瞳で、フィオは己の手を見つめる。
それから、自分の姿を改めて見おろした。
「うーん〜?」
体を包むもこもこの羊毛。暗闇でもなお艶かしく映える黒い皮と肌。くるりと振り返れば、ぱたぱたと布団を叩く尻尾と、毛に覆われた足の先端に硬いひづめが見える。頭に手をやれば、柔らかな髪の毛と、羊毛に包まれた耳、そして硬い角に指が触れた。
ベッドに座ったまま、闇色のガラス戸に自分の姿を映す。
そこにいるのは、羊の特徴を持った魔物の女の子だった。何もおかしくはない。
「わたし、だよね〜」
もう一度、自分の身体を見、あちらこちらに触る。目に映る姿も、触れた感触もこの場にいるのはワーシープの女の子だと教えてくれている。
そう、自分はワーシープなのだから、これが当たり前の姿だ。
何かおかしいのだろうか。いや、おかしいはずはない。
そう思っても、頭の片隅にはどうにも変な感覚が残っていた。何か、大きな間違いをしているような気がする。けれど、その間違いが何か、まるで思い浮かばない。
「何か〜、妙ね〜?」
頭上に疑問符を浮かべ、首をひねるフィオ。
いや、そもそもなんで自分は一人で寝ていたのだろうか。
寝るにしても、大好きな人と一緒であるはずなのに。
「う〜……、ん?」
「おーい、フィオ?」
「ふぇ?」
困惑に唸りながら考え込むフィオを、扉の向こうから聞こえた男の声が現実に引き戻した。名前を呼ばれ、彼女は思わず間抜けな声を上げて目を瞬かせる。
耳に届いた声は、どこかで聞いたことのあるものだった。けれど、まだかすかに靄のかかる頭は、それが誰かすぐに思い出すことが出来ない。
自分の声が聞こえたのか、がちゃがちゃと音を立ててドアノブが回る。
そういえば鍵は掛けていなかったっけ、とぼんやりと思ったフィオの前で扉が開いた。
「起きてるか? 入るぞー?」
室内に入ってきた男の姿を認め、フィオはようやくそれが彼女の恋人、ルベルトの声だったと思い出した。
「ルベルトだぁ〜」
意識しないうちに、ごく自然に少女の顔に笑みが浮かぶ。迸る想いが声となって、彼女は愛しい名を呼んだ。先ほどから渦巻いていた疑問や、違和感などは青年の姿を認めた瞬間に泡のように消え去ってしまっていた。
見慣れた、そして大好きな彼がすぐ側にいる。たったそれだけでフィオの胸は高鳴り、歓喜と幸せとが彼女を満たす。
「そろそろ機嫌直ったか〜? 直してくれよ〜?」
暗がりのせいで、こちらの表情は見えないらしく、おそるおそるといった風に歩み寄ってくるルベルト。
彼が近づくたびにフィオの中では嬉しさと喜びが膨れ上がり、顔に浮かぶ笑みをより大きく、いっそう輝かせる。そんな内心を映し、羊の耳と尻尾がぱたぱたと動いた。
ベッドのすぐ側まで辿り着き、ようやくルベルトは身を起こしたフィオに気付いたようだった。
「お、起きてたか。その、さっきは悪かったよ」
気配からもう怒っていないことを察したのか、安堵を滲ませてベッドの側のランプに火を点け、振り返って言葉を続ける。
「で、気を取り直してそろそろ夕飯にしよ……」
だが、ランプの明かりに照らされ、浮かび上がった彼女の姿を認めた瞬間、青年は凍りついたかのように動きを止めた。発しかけた言葉が途切れ、困惑とも驚愕とも取れる複雑な表情がその顔に浮かぶ。
「どうしたの〜?」
笑顔を浮かべたまま問いかけるフィオにも答えられず、ベッドの上の少女を凝視したままのルベルトはただぱくぱくと口を動かすだけだった。
「ふふ、変なルベルト〜」
その様子がなんだかおかしくて、フィオはくすくすと笑う。
困惑したままの彼の姿を見つめ、それから彼女はゆっくりとベッドから立ち上がった。辺りを照らす橙色の炎を受け、汗に濡れた肌と羊毛が煌く。
「ね、ルベルトぉ〜……」
その身を覆う羊毛のように柔らかな笑みを浮かべ、立ち尽くすルベルトにフィオが一歩一歩近づく。彼女の足が床を踏むたび、ひづめがならす音がやけに大きく響いた。
その音でようやく我に返ったルベルトが、戸惑いながらも口を開く。
「ふぃ……フィオ……なのか?」
フィオに向けられた瞳は揺れ、目の前の現実を理解できないでいるようだった。
「い、いったい……お前……その、格好……?」
戸惑いながらも、近寄ってくる少女に尋ねるルベルト。
フィオはその言葉を遮り、ゆっくりと彼に抱きつき、柔らかな羊毛に彼を包み込む。柔らかな羊毛と豊かな双丘が当たり、顔を赤らめる青年の反応を見ながら、少女は心から嬉しそうな表情を浮かべた。
「うふふ〜」
間近から見つめられ、思わず視線を逸らそうとする青年の顔に、少女はそっと手をあてがう。
「もう〜。よそ見しちゃ、だめぇ〜」
間延びした声を響かせながら、フィオの黒くつやつやとした指が青年の頬をそっと撫でる。
いつもの彼女なら絶対にしないような声と、行動にルベルトは驚くと共に、無意識のうちに奇妙な興奮を覚えていた。
「お、おい……? フィオ、何を……」
かすかな期待を滲ませる彼に答えず、ワーシープの少女はにこりと微笑む。
彼女は青年の頬に両手をあてがい、ゆっくりと自らの顔を近づけていった。
見つめあう二人の顔、その距離が少しずつ縮まり、そして、唇が重なった。
「ん……」
至福の感情に満ちた声が少女の口から漏れる。
驚きに目を見開く青年に、フィオはやさしく触れ合うだけのキスをし、ゆっくりと顔を離す。一方、いまだに事態を理解し切れていない青年は目を白黒させたまま、彼女を見つめるだけだった。
「えへへ〜、キス、しちゃった〜」
頬を朱に染めたフィオがそっと唇に指で触れ、はにかみながら囁く。
そんな彼女に、青年は混乱の収まらない表情のまま口を開いた。
「ど、どうしちゃったんだよ、お前……」
「分からないけど〜、お昼寝して、何だか目が覚めたらね〜、とっても素直な気持ちなの〜」
嬉しそうに、やんわりと笑顔を浮かべる少女。
その言葉に、ルベルトはちらりと顔を動かす。
「寝て、目が覚めたら……? もしかして……」
視線の先には、ベッドの上に広がる先ほど買ってきた毛布。原因として考えられるのはあれしかない。
もしかして、とんでもないものを買ってきてしまったのではないだろうか、という考えが浮かんだのだろう、青年の背にはいやな汗が滲み出す。
「どうかしたの? もう、わたしをちゃんと見てくれなきゃ、だめ〜」
一方の少女は自分から目を逸らした青年に対し、頬を膨らませる。
それから不思議そうに小首をかしげ、ぽつりと呟いた。
「でも何で〜、あんなに意地張ってたのかな〜?」
言葉と共に、彼女の細い指がゆっくりとルベルトの頬をなぞる。妖艶なその仕草に、青年は無意識につばを飲み込み、掠れた声で問い返した。
「い、意地?」
「そう〜、いつも〜、素直になれなくて〜、ほんとは〜わたし〜、ルベルトのこと、大好きなのに〜」
「だ、大好きって……」
フィオにしてはあまりにも直接的な告白に、ルベルトの頬が真っ赤に染まった。
そんな彼に笑顔を浮かべ、彼女は言葉を続ける。
「だから、ね〜……? もういっかい、してもいいよね〜?」
その言葉にルベルトが答えるよりも早く、フィオは再び顔を近づけ、唇を塞ぐ。
思わずびくりと背を震わせた青年を、少女の手が安心させるように抱きしめた。
「んぅ……ふぅ……んっ、ちゅぅ……ちゅ……」
少女は彼の唇を吸い上げ、恍惚の表情を浮かべる。腕の中の青年に潤んだ瞳を向け、舌を伸ばし、唇に触れる。それだけで、彼女は蕩けてしまいそうなほどの幸せを感じた。
もっともっとと身体が求めるままに、少女は唇を押し付ける。
「……ん……ちゅ、……んんっ」
唇を触れ合わせるだけでは満足できなくなったフィオは、伸ばした舌でルベルトの唇をつつく。艶かしくうごめく舌先を感じた青年が身体を震わせた隙に、少女は彼の唇を割り開き、その口内へするりと舌を挿し入れた。
「んんっ……!?」
わずかに目を見開く彼に構わず、フィオは唾液を舐め取り、己の舌と彼の舌を触れさせ、さらには歯、歯茎、頬の裏と、彼の口内全てを蹂躙していく。
「れろ……んふ、ちゅぷ、れろ……んふ……ぅ」
頬を染めた少女は満足げに瞳を細め、背筋を駆け抜ける快感に打ち震える。漏れ出た荒い吐息が肌を撫で、耳に届く淫らな音が興奮を高めていく。生まれた熱を伝えるかのように、少女は青年を抱く腕に力を込め、身体を密着させた。
「ちゅ、ちゅ……、おいひ……ちゅぅ……んぅ……っ」
目じりに涙を浮かべ、フィオは夢中でキスを続ける。唇を押し付けるたび、少女の羊毛に包まれた胸が弾み、肌が彼の身体と擦れた。それすら少女には快感となり、胸の鼓動を加速させ、魔物としての本能を呼び覚ましていく。
「ふ……んぅ……っ、いい……、きもちぃ、いいよぉ〜」
完全に発情した瞳に淫蕩な瞳を灯し、フィオは腕の中の青年に肌を触れ合わせる。
「あ……」
「ふぇ?」
青年の口から漏れた小さな声に、フィオは抱きしめたままの彼へと視線を落とす。
いつの間にか青年は眠たげに瞳をとろんとさせ、脱力した身体を少女に預けていた。
「ふふ、気持ちいいの〜?」
「あ、ああ……」
フィオの問いに、眠気に頭を揺らす青年はかろうじてそれだけを答える。
幼子のように身体を預け、揺られる青年に少女はやさしく微笑みかける。
「それじゃあ〜、もっと〜、ぎゅって〜してあげるね〜?」
温かな羊毛に包まれ、まどろみに誘われた青年はフィオのなすがままになっている。彼は何とか眠気に抗おうとしているようだが、瞳に灯る光はぼやけだし、思考にも靄がかかっているようだ。
「寝ちゃってもいいよ〜、わたしが、ぜんぶしてあげるから〜」
青年の頭をあやすように撫でながら囁くと、彼を抱いたまま、少女はベッドへと向かった。ひづめが床を鳴らす音が、暗い部屋の中に響く。
「と〜ちゃ〜く〜、おろすよ〜」
少女は広がったままの毛布の上に彼の身体をゆっくりと横たえ、それから自分もベッドの上に乗った。二人分の体重に、ぎしりと寝台が鳴り、布団が沈み込む。
「もういっかい〜、キスさせてね〜」
ルベルトの答えを待たず、青年の上に覆いかぶさるフィオ。睡魔に襲われ、虚ろな瞳をした彼に顔を寄せ、再び唇を塞いだ。
長いキスを終え、顔を離した少女は満足げな笑みを浮かべ、跨った青年を見下ろす。
「あふ……キス、気持ちよかったね〜」
青年はもう、ほとんど意識はないようだった。それでも、彼の男性自身は与えられた快楽に反応し、ズボンの中で大きく膨らんでいる。
「えへへ、キスでおっきくしてくれたんだね〜」
朧に見つめ返す視線を受け、フィオは恥ずかしそうに頬を染め、彼の耳に囁いた。
「わかる〜? わたしもね〜、キスでこんなになっちゃったんだぁ〜」
力なくシーツの上に投げ出された青年の腕を取り、そっと自らの股間へと導く。
「んっ……」
羊毛をかき分け、彼の指先が秘所に触れた瞬間、少女は小さな声を上げた。
同時に、さらに硬く勃起した青年自身が肌に触れる。それに彼女は嬉しそうに頬を緩ませると、そっと膨らんだ彼の股間を撫でた。布越しでも感じる快感に、青年がびくんと反応する。
「またおおきくなったね〜、苦しいでしょ〜? まってて〜脱がしてあげる〜」
まどろみに囚われた青年が、朦朧とした意識の中かすかに頷く。少女はそんな彼に微笑を浮かべ、ズボン、そして下着を脱がしていった。衣服に隠されていた肌が露になり、肉棒が外気に晒される。
男性の象徴を前に思わず感嘆の声が漏れる。
「わ……これが、おとこのひとの〜」
同時に、少女の中の魔物の本能が目を覚ます。いつしか彼女の瞳には妖しげな光が灯り、吐き出す息は熱を帯びていた。羊毛のない、人と同じ肌の部分には汗が浮き、切なげに腰をくねらすたびに、スカートのように広がった毛皮が可愛らしく揺れる。
「ね、がまんできないから〜、いれちゃって、いいよね〜?」
囁く少女の声が、興奮に掠れる。
そして少女は抗うことなどできず、なすがままの青年へと、静かに腰を落としていった。
「う〜……、ん……」
暗闇に満ちた部屋の中、間延びした声と共に、ベッドの上の人影が身じろぐ。
室内の空気には情事の後のむせ返るような淫臭が漂い、乱れたシーツが彼らの行為の激しさを物語っている。既に時間も遅いのか、宿の別室はおろか、窓の外にも物音一つしない。
気だるげに身を起こしたワーシープの少女、フィオは柔らかな毛に包まれた腕でぐしぐしと顔を拭う。黄金色の角がランプの灯りに照らされ、白い羊毛が薄く炎の橙色に染まった。
「ん……ぅ……」
すぐ側から聞こえた小さな声に、フィオはその羊の耳をぴくりと動かし、瞳を向ける。
彼女の視線の先には、穏やかな寝顔を浮かべたルベルトの姿があった。青年は先ほどフィオが脱がせた格好のままで、はだけた胸が静かに上下している。
「ふふ〜……」
フィオはその横顔を見つめながら、幸せに満ちた吐息を漏らした。
そっと手を伸ばし、青年の胸にあてがう。触れた手のひらに規則正しい鼓動が伝わり、少女の中に溶け込む。いつの間にか自分と彼の鼓動が同期し、ひとつとなっていた。
いつもは気にもしていなかったけれど、冒険者として鍛えられた胸板は厚く、男を感じさせる。そっと肌を撫でると、青年はくすぐったそうに身をよじった。閉じられた瞼がほんのわずか、動く。
「う……」
起こしちゃったかな、とフィオが手を引っ込めようとした瞬間、青年の手が、少女の手に重なった。反射的に身を震わせた少女の耳に、青年の小さな声が響く。
「どんなになっても……いっしょに、いるからな……」
「あっ……」
その言葉に、フィオははっとして顔を向ける。
けれど、青年の瞳は閉じられたまま、わずかに開いたその口からは穏やかな寝息が響いているだけだった。
「……むにゃ……くぅ……くぅ……」
「……寝言〜?」
つん、と指先で彼の頬をつついてみても、じっとその顔を覗きこんでみても、反応らしい反応は無かった。本当に、ただの寝言のようだ。
でも、だからこそ。
それは、嘘偽りの無い彼の本心だと、フィオは分かった。
ワーシープという魔物の自分のことを、彼はこんなにも想ってくれている。それが何より嬉しくて、青年を見つめる視界が滲んだ。
彼に見られなくてよかった、と思いながら、フィオは目元に浮かんだ涙を拭った。そのまま伸ばした手が、眠る青年の頬を撫でる。
「うん……こちらこそ〜、これからも、よろしくね〜」
心から嬉しそうに笑顔を浮かべ、愛しい人へと囁く。そして、羊となった少女は愛しい彼にぴったりと身を寄せ、やさしく身体を抱きしめた。柔らかな毛に包まれていても感じる青年のぬくもりが少女を満たす。
「目が覚めたら〜、また、しようね〜」
フィオはくすりと笑い、すぐ側の彼に囁く。
そして、羊の少女は穏やかなまどろみに身も心も任せるのだった。
終わり