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 序

 

「人間」と、彼らとは異なる姿と力を持つ種族、「魔物」が共に存在する大地。

この世界にいくつか存在する大陸の一つ、その北東部にはいまだ人の手の入らない豊かな自然を残す地方がある。広大な平原、ゆるやかに流れる川、鬱蒼とした大森林や天高くそびえる山々など、場所ごとに様々な姿を見せる自然の中には古くより多くの魔物や亜人たちが住み、人とともに暮らしていた。

代々この一帯を治める領主一族の名をとって、「フリスアリス領」と呼ばれるこの地方は、大陸を統べる王国の中心である首都から遠く、魔を排する教えを唱える中央教会の威光も薄い。

また、領主であるフリスアリス家は古来より人と魔物の共存に理解が深く、特に現在の当主は人と魔物の積極的な交流を支持していることもあって、人だけでなく魔物からも慕われている。そのため領主邸のあるこの地方の中心都市には多くの人とは異なる種族が集まってくる。街中に立ち並ぶ店に置かれた品物には、彼ら魔物がもたらす貴重な品やここでしか手に入らないような珍しい品も多く、街には一攫千金を求める冒険者や交易品の買い付けに来た旅商人が数多く訪れ、中央の大都市にも勝るとも劣らない活気を生み出していた。

フリスアリス領中心都市を貫く大通りに店を構えるのが、この街一番の大きさを誇る酒場兼宿屋の「輝く銀翼亭」。

駆け出しの冒険者から歴戦の傭兵、恋に憧れる魔物の少女まで人魔を問わず客の集まるこの店は、同時にフリスアリス領最大の社交場にして娯楽施設でもあると言える。

多種多様な姿、種族の男女が連日のように酒に酔い、宴を繰り広げるその光景はまさしく酒池肉林の体現といったところで、初見の客にはこの世のものとは思えないものですらある。

そのため、この店は街の住人からは「銀翼亭」という名前ではなく、半ば呆れの響きと共にもっぱら別の名で呼ばれていた。

 

曰く、「魔界に最も近い店」と。

 

 

『使い魔少女の長い午後』

 

1.

 

窓から見える外の景色は既に闇が覆い、空には星が瞬いている。街角で大声を張り上げていた露天商たちも既に引き上げ、道を歩く住人の姿も昼に比べまばらになっている。大多数の人々は帳を下ろした闇に追われるように、それぞれの家へと戻ったようだった。

今は夜、また明日の朝日が昇るまで、人々がしばしの休息を取る時間である。

通りに軒を連ねる商店も、多くは店じまいの片付けを終えた頃だろう。立ち並ぶ建物や夜の闇に黒いシルエットを浮かび上がらせる街路樹といった光景は全く変わらないのに、家々から漏れる灯かりに照らし出された大通りは昼とはまるで違った姿を見せていた。時折、意気揚々と引き上げてきた冒険者の一団や、彼らを誘うように視線を送る魔物の女性が通りに姿を見せるものの、星空の下に広がる街の大部分は静けさに包まれていた。

 

しかし、そんな中、夜の訪れと共に目覚める場所もある。通りを歩く者たちが一様に目指す、闇の中でこそ燃え上がる炎のような場所。その一角のみは闇の中でも眠ることなく、煌々とした明かりを灯している。

それが、「輝く銀翼亭」であった。

壁を通して響く声を耳にすれば、店の外からでも店内から漏れ出す活気と熱気を感じられる。宴の気配に誘われ、一人、また一人と人影が店内へと吸い込まれるように消えていく。太陽がはるか彼方の山影へと隠れたこの時間が、酒場兼宿屋である「輝く銀翼亭」にとっての稼ぎ時にして激戦の時間なのであった。

 また一人、冒険者と思しき男性が入り口の戸を開けて姿を現す。

「いらっしゃいませ〜。『輝く銀翼亭』へようこそ〜!」

 談笑のざわめきと、食欲をそそる酒と料理の香りが満ちる空間に少女の声が響き渡る。戸を開けて店内に足を踏み入れた男性は慣れた足取りでカウンターの席へと向かうと、ヒゲ面の店主にオーダーを頼む。

その間にも、先ほど声を上げた少女は両手に料理の載ったトレイや酒の満たされた瓶を持ち、店内を所狭しと駆け回る。湯気を上げる料理が盛られたトレイをテーブルの上に置くと、代わって空になった皿やグラスを盆の上に山と重ね、絶妙のバランス感覚で奥へと運ぶ。

少女の姿が厨房に消えたかと思う間もなく、ホールへと再び飛び出してきた少女にマスターの声がかかった。

「プリメラ、五番テーブルオーダー上がったぞ!」

「いまいきまーす! マスター、三番テーブルにポテトフライとサラダ盛り合わせ〜」

 プリメラ、と呼ばれた少女は店内の喧騒に負けまいと叫び、声をマスターへ返す。

「おーいねーちゃん、こっちにエール追加だ」

「はーい! ただいまー!!

客の追加注文へと返事をする少女は薄紫色のセミロングの髪に、ルビーのような紅い瞳。幼い風貌と体つきは、十をいくつか超えた歳の子どもにしか見えない。が、その手馴れた客さばきや山と盛られた料理を軽々と運ぶパワフルさはどう考えても幼い子どものものではなかった。

答えは簡単。なぜなら、彼女は見た目どおりの存在ではないからだ。よく見れば頭には髪をかき分けるようにして尖った耳と黒い角とが姿を現し、翻るスカートの裾からは細い尻尾が見え隠れしているのがわかるだろう。

人に似てはいるが、しかし人とは異なる姿と力を持つこの少女。プリメラ、と呼ばれた彼女は、実はインプという魔物なのである。

とはいえ、客もマスターも彼女のことを気にした様子はない。それも当然である。反魔物派の王や貴族が治める中央の王国首都ならいざ知らず、ここは魔物と共に暮らす地、フリスアリス領。この辺りでは真っ昼間から町中の通りを魔物の少女が歩く光景など日常茶飯事で、人間と魔物の女性のカップルすら当たり前である。

無論、この街ではたかだかインプのウェイトレスに驚くものなどいない。何せ客席には彼女以上に魔物らしい魔物たちがいるのだから。

ちらりと視線をめぐらせれば、満員御礼の銀翼亭の様子を目にすることが出来る。店内に置かれたテーブルやカウンターはほぼすべて客で埋まっており、人と魔物が思い思いに楽しむ毎夜の光景が繰り広げられていた。

店内の中央テーブルでは、人間の男性とリザードマンの少女、さらに褐色肌のエルフという人魔混成の冒険者の一団が酔った勢いで今日の戦果を声高に自慢し合っている。カウンター席では、青年にしなだれかかるセイレーンの娘が耳元で愛の歌を囁いたり、果ては隅の席でワーウルフの少女たちが巌のようないかつい男性と抱き合っていたりと、いつもの事ながら店内には混沌とすら言える状態である。

その合い間を縫うようにして、メイド服をウェイトレスの制服代わりに纏ったインプの少女、プリメラは忙しげに行き交う。まだ夜は始まったばかり。しばらくは銀翼亭のピークタイム、彼女にとって忙しい時間が続く。

「お〜い! 嬢ちゃん! 酒なくなっちまったぞ〜!」

「こっち注文いいか〜?」

「はいー! いますぐいきまーす! 少しお待ちを〜!」

 響く客たちの呼び声に答え、服のポケットからメモを取り出しテーブルへと駆け出す。恐ろしいほどの仕事量に、プリメラは自分以外にももう少し店員を増やすべきではないのかと内心思った。が、とりあえずは今ある戦力でこの状況を切り抜けるしかない。

「一息つく暇すらないってのも、店員にとっては考え物よね」

 こっそりと息を吐き出し、彼女は再び戦場と化した店内へと意識を向けるのであった。

 

――――――――――――――

 

「ありがとうございましたぁ〜! またのご来店をお待ちしておりま〜す!」

 最後の客を笑顔で見送り、プリメラは扉に「CLOSED」の木板を下げる。店内に戻った彼女は一通りの戸締りをすると、カウンター席にのろのろと腰を下ろした。

「お、おわったぁ〜……」

精根尽き果てた声と共に、机の上に身体を投げ出す。既に日も変わってから随分と経っており、後もうしばらくすれば明け方間近な時間である。

「さ、殺人的な客の入りだったわ……」

 言葉のとおり、ここしばらくの記憶の中では一番の盛況だった。一日で一体どれだけの売り上げが上がったのか、途中から計算する暇も無かったくらいである。店としてはこれ以上無い成果なのだろうが、それを捌く方にしてみれば悪夢以外の何物でもない。

「本気でマスターに店員増やしてもらわないと……。いくら私が魔物だって、体力に限界はあるもの……」

先ほど店の奥へ入っていったホクホク顔のマスターはともかく、今のプリメラには達成感や満足感よりも疲労が先にきていた。泥につかったように身体が重く、指を動かすのさえおっくうなくらいである。スカートの裾から除く尻尾も、力なくだらりと垂れ下がっている。

「と、とにかく寝よう……もう何も考えたくない」

最後の気力を振り絞り、プリメラは椅子から立ち上がる。店内を横切り、二階に続く階段へと向かう。銀翼亭の二階には宿屋としての客室のほかに、従業員であるプリメラの部屋もある。そこまで行けば、ベッドで休むことが出来る。

欲を言えばシャワーくらい浴びておきたかったが、体力と精神力が限界に来ている今の状況では無理そうであった。真面目な話、途中で倒れかねない。とりあえず階段さえ上がって部屋に入ってしまえば後はベッドに倒れこむだけ、と自分に言い聞かせ、彼女は手すりをつかむ。

「お、プリメラ。ちょっといいか?」

 身体が軋むような錯覚と戦いながらインプの少女が階段を一歩一歩上っていると、階下からマスターの声が響いた。振り返って下を見れば、見慣れたヒゲ面がこちらを見上げているのと目が合う。

「なに? マスター?」

 正直なところ一秒でも早く休みたい所ではあったが、かといって雇い主であるマスターのことを無視するわけにもいかず、彼女は渋々ながら聞き返す。

「疲れているところ呼び止めてすまんな。まあ、余計な仕事を増やすわけじゃあないから勘弁してくれ」

マスターは少女の内心が駄々漏れの声に苦笑を浮かべると、手にした一枚の紙をひらひらと振った。彼はもう片方の手で、自慢のヒゲをしごきながら言葉を続ける。

「それに、とりあえずはお疲れのお前にとっても、悪くない話だ」

「悪くない話? 何?」

 訝しげに眉をひそめるプリメラに、マスターは頷く。

「ああ。っと、もったいぶっても仕方ないな。まずは一つ、『銀翼亭お休みのお知らせ』だ。うちは明日、臨時の休業日にする。よかったな、ゆっくり休めるぞ」

「お休み? また急な話じゃない」

 降って湧いた突然の休日に、喜びよりも疑問を感じてプリメラは聞き返す。彼女の反応は予想していたものだったのか、マスターは再び頷き、続ける。

「まぁな。だが休みにするくらいの重要事が発生したから仕方ない。幸い今日明日は泊り客もいないしな」

「重要事?」

「ああ。さっきまでいた旅の商人が話してたのを小耳に挟んだんだがな。明日、この街の市場に隊商が来るらしい。それで、珍しい酒が入るらしいんだってよ」

「ふぅん。珍しいお酒、ねえ」

 確かに、酒場兼宿屋の――それも酒場のウェイトが収入のかなりを占める――銀翼亭にとって、銘酒の入手はそのまま店の売り上げにも繋がるのだから、マスターが重要事案というのもわからないでもない。

「それにしても。マスター直々に、それも店を閉めてまでして買い付けに行くなんて珍しいんじゃないの?」

「そりゃ普通なら馴染みの商人にでも任すけどな。今回ばかりはそうはいかねえ」

「そうなの?」

「ああ。なにしろその入荷するって酒がな。聞いて驚け、その名も高き『リリムの淫美酒』だってんだ! 通の間じゃ幻の一品といわれる名酒で、この街で前に入荷したのは数年前。それもたったの数本だったからな」

「『リリムの淫美酒』、ねえ……」

その酒の名前は一応、酒場で働く者としてプリメラも聞いたことはあった。その正体は上級魔族が精製した霊薬で、魔界ですらめったにお目にかかることの出来ない希少な一品。秘めた魔力のおかげか、魔術の触媒としてだけでなく、酒としても無類の美味さだといわれる銘酒なのだ。酒好きの人間や魔物の間では、一瓶が想像もつかないくらいの高額で取引されているともいう。

「前回は残念ながら手に入れられず仕舞いだったが、今度こそ! この機会を逃して堪るかってんだ!」

 興奮した様子で語るマスターの目は、戦いに行く前の傭兵のように燃え盛っている。酒場を経営する彼個人もまた、無類の酒好きなのだからそれも無理からぬことではあったが。

そんな酒を手に入れられるかもしれないと聞いて、普段なら驚くところなのだろうが。疲れきっていた今日の彼女にそんな余裕は無かった。

「はぁ。まあ別にいいけど。じゃあ私は寝ますね、おやすみ」

プリメラは無感動な表情で淡々と感想を述べると、自室に向かって再び階段を上り始める。

その背にマスターは慌てて声をかけた。

「ああっと待て待て待て。それでだ、店を休業にするついでに普段なかなか手に入れられない物も補充しておこうと思ってな。お前には別の品の仕入れを頼みたいんだよ。もちろん、駄賃は出す。簡単な仕事だから、悪いが頼まれてくれないか?」

「まあ……別に予定も無いからいいけど……ふぁ……」

「決まりだな。じゃあ仕入れの品物を書いたメモと、お金の入った袋はここに置いておくぞ。起きた後、いつでもいいからちょっくら行ってきてくれ」

「はぁい……」

あくび交じりの声で眠そうに答えるプリメラ。マスターもこの状態の彼女に細々とした説明をするのは無駄だと悟ったらしく、カウンターの上にメモを置くと一階の奥、彼の部屋へと下がっていった。

マスターの姿が視界から消えるのを待たず、プリメラは再び階段を上る。二階の廊下をよろよろと歩き、自室前までたどり着くと、飾り気のない簡素な戸を開けて部屋に入る。

正直なところパジャマに着替える気力すらなかったが、わずかに残った力でエプロンを外し、椅子に投げかける。背もたれに白い布が上手く引っかかったのを横目で確認し、彼女は亀のような足取りで寝台へと向かった。

「もうだめ、寝よ……」

それだけを呟くと、インプの少女はベッドに倒れこむ。毛布を引っつかんで身体をくるみ、そのまま全身の力を抜く。柔らかな布団の感触を味わう間もなく、彼女の意識はまどろみの中に落ちていった。

 

 

2.

 

 窓から差し込む日差しが、瞼越しにも眩しく視神経を刺激する。爽やかな朝の気配と、どこからか聞こえてくる鳥のさえずりに導かれ、プリメラの意識は眠りの世界から現実へと、ゆっくりと浮上していく。

「ん……うぅん……」

 腕で目元を覆い、呻きながらプリメラはベッドの中で身じろぎをする。しばし毛布に包まったままごろごろとしていた彼女だったが、やがてベッドの上に身を起こすとその瞼がわずかずつ開いていった。

「ふぁぁ……。もう、朝……?」

 プリメラは目を擦りながら周囲を見回し、呟く。その声はまだ半分、寝ぼけたままであった。寝起きの頭は上手く働いてくれず、現状を把握するまでにはたっぷり数分の時を要した。元々、朝に弱い彼女は完全に目覚めるまで時間がかかるのである。

まだ薄靄がかかったままの頭でプリメラは部屋の中を見回す。くしゃくしゃになったメイド服と、椅子に引っかかったままのエプロンを見て、彼女はようやく昨夜の記憶を脳裏からひっぱり出す。最近では一番の客の入りだった修羅場を乗り切った後、自分の部屋に戻って着替えもせず倒れこむように眠ってしまったことを思い出した。

 ついでに、掘り起こした昨夜の記憶の中から、閉店後のマスターとの会話を思い返す。

「えっと……今日はお店はお休み、だったわよね」

 魔物の特権と言うべきか、幼い外見からは想像もつかない体力を持つ彼女だが、一晩寝ただけでは疲弊した精神力までは完全には回復していなかった。正直なところ、今日の臨時休業はありがたい。

「……なんだかべたべたする……。着替えよっかな」

寝汗のせいか、わずかな不快感に眉をしかめる。プリメラはベッドから立ち上がり、クローゼットへと向かう。寝巻きと下着を脱ぎ、取り出した私服に着替える。それだけでも随分と違ったが、折角の休みなのでのんびりシャワーを浴びてもいいかもしれない。

脱いだ服をまとめ、洗濯物入れ用の籠に放り込む。それから窓辺に目を向けると、光に誘われるようにプリメラは窓へと向かった。

「ん〜……いい天気」

 カーテンを開ければ、雲ひとつない青空が見える。透き通るような青色が、目に心地よい。空を眺めているうちに、彼女の頭も随分すっきりとしてきた。

インプ、つまりは魔物であるプリメラだが、悪魔のような姿から抱かれる一般的な魔物のイメージとは違い、太陽が嫌いなわけではなかった。むしろ、明るい日差しや青い空が好きなくらいである。中には暗い洞窟や地下を好む魔物がいることも確かだが、一方で太陽の下で過ごす魔物がいることも確かなのである。

不意に、くぅ、とプリメラのお腹が可愛らしい音を立てる。どうやら頭が動き出したと同時にお腹も動き出したらしい。

「魔物だっておなかは空くもの。仕方ないよね」

誰にも聞かれなかったことに安堵しながら、プリメラは脱いだ服の入った籠を片手に持ち、部屋を出るのだった。

 

一階に降り、テーブルの並ぶ店内を横切って厨房へ向かう。店内には彼女以外の姿はなく、昨夜の喧騒が嘘のように一階のフロアは静まり返っていた。酒場としてのウェイトが大きいものの、宿屋でもある銀翼亭は普段ならばこの時間から朝食の支度やら何やらで騒がしいものだが、泊り客がいない今日のような場合は随分と静かなものなのである。

 いつものように厨房の食材を使って、簡単な朝食を作る。肉と野菜をはさんだサンドイッチに、よく冷やされたコップ一杯のミルク。欲を言えば精気を取って疲れを癒したかったが、残念ながらそれは無理な話だった。

「恋人もいないしね」

 わずかな自重交じりに呟く。

何とはなしに窓ガラスの向こうの通りを見れば、品物を抱えた人が歩いているのが見える。おそらく恒例の朝市帰りの客たちだろう。臨時とはいえ今日一日は休みになったことだし、街に出てウィンドウショッピングと洒落込むのも悪くないかも、と彼女はぼんやり思う。

 サンドイッチの載った皿を置くついでにふと視線を下げた拍子に、彼女はテーブルの上に一枚の紙があることに気付いた。

「そういえば仕入れを頼まれていたんだっけ……? うわ、まずいかなあ」

太陽の高さから考えると、既に朝市は終わった時刻だろう。まだ広場には何人かの商人は残っているかもしれないが、めぼしいものはなくなってしまっているに違いない。

「でも、確か『仕入れに行くのはいつでもいい』って言ってた気がするし。多分朝市じゃなくても手に入るもの、だよね」

 マスターの言っていたことを思い出し、プリメラは紙を摘み上げてそこに書かれた文字を読む。仕入れを頼まれたものはいくつかあったが、彼女の予想の通り、そこに書かれていたものはすべて朝市でなくとも手に入るものであった。安堵に胸をなでおろす。

「ふむふむ……食材というよりは調味料とか、雑貨が中心みたいね。これならいつも行くお店で全部揃うはず……よね。マスターはいつでもいいって言ってたけど、早めに片付けるにこしたことはないでしょうし。ご飯を食べてシャワーを浴びたら、散歩ついでに出かけましょうか」

 最後のサンドイッチをかじりながら、プリメラは頭の中で予定を立てる。最後のひとかけらをミルクで流し込むと、まず手始めに冷たいシャワーを浴びるべく、浴室のある一階の奥へと向かうのであった。

 

――――――――――――――

 

 明るい日差しが降り注ぐ街中。たくさんの人でごったがえす大通りをプリメラは歩く。仕事から解放されたせいか、彼女の足取りは軽やかで、人ごみの中をすいすいとすり抜けるように進んでいく。

「やっぱり人が多いわね。にぎやかなのは嫌いじゃないけど」

歩きながら街の様子に目を向け、彼女は独り言を呟く。

 言葉の通り、フリスアリス領中心街の通りは今日も多くの人で賑わっていた。彼女の目に映るのはこの街の住人から冒険者たちなど様々で、多種多様な装いをした彼らは見ているだけでも楽しめる。それだけでなく、北方や南方の異国出身と思しき旅の者らや、極東の国の装束を纏った魔物の女性といった珍しい姿も見えた。

通りの両側に立ち並ぶ商店の棚には食材、衣服にアクセサリ、スクロールや傷薬の入った小瓶、剣や槍、鎧といった武具、はたまたみやげ物らしき小さな像などといった品々が整然と、あるいは雑然と陳列されている。それぞれの店の店員が道行く者たちに声をかけ、多くの客が足を止めて品物を眺めたり、手に取ったりしていた。

 プリメラもそうした人々と同じく、傍らウィンドウショッピングを楽しんでいた。もちろん、頼まれたおつかいのことも忘れてはいない。が、メモに記された品はどれも大至急必要といったものでもないので、彼女はこっそりと自分の趣味を優先させていたのだった。普段は時間が無くてなかなか見て回れないような店も覗きこみ、気になる品や気に入った店を脳内にメモしていく。

服や装飾品の並んだ店に入るたびにプリメラはショーケースにならべられた宝石や指輪、豪奢なドレスなどを片っ端からチェックして行く。女性にとっての憧れであるドレスやアクセサリ、それらを身につけた自分の姿を夢想し、頬を緩める。だがそんな妄想に浸っていたのもつかの間、値札を見た途端に現実に引き戻され、彼女は溜息と共に肩を落とした。

「た、高い……」

 値札に記された額は、プリメラの給料半年分でもまだ足りないくらいの数字だった。当然、今の彼女がそんなお金を持っているはずも無い。

とはいえ、別に銀翼亭のウェイトレスが薄給なわけでも、プリメラが特別浪費家なわけでもない。そもそも彼女がいつも見に行くのは、貴族など上流層向けの高級品を並べた店ばかりなのである。品物はどれも、とてもではないが一介の少女に払える額ではない。

が、そういう店を見て回り、手の届かない品物に思いを馳せることもウィンドウショッピングの楽しみの一つなのだ、と彼女は考えていた。

そう自分に言い聞かせつつ、彼女は店を出る。

「とはいえ。毎回毎回何も買わずに手ぶらで戻るのもね」

 最初は見るだけのつもりだったが、少しばかり空しさを感じたのも確かだったので、プリメラは露店でふと目に付いた水晶のネックレスを購入することにした。様々な品物が並べられた棚の隅に置かれていたそれは、カットされたクリスタルのペンダントトップを銀色の鎖で繋いだシンプルながらも魅力的な一品。値段も手ごろな割には良くできている。

「これくらいはいいわよね」

駄賃も貰っていることだし、この程度の出費なら生活にも響くまい。彼女は自分にそう言い聞かせ、ネックレスを摘み上げると会計をするべくカウンターへと向かった。 

 

「ふう。一つ一つではそれほどでもないと思ったけど、リスト全部をあわせると結構な量になったわね。まったくマスターも人遣いが荒いんだから」

 プリメラは通りを歩きながら、独り言をこぼす。装飾品店を出てから、既に彼女は数軒の店を巡った後である。太陽は中天を通り過ぎてはいたが、暖かな陽射しは変わらず街に降り注いでいる。彼女の胸の上には細い首から銀鎖で下がるクリスタルが輝き、歩くたびに煌めきを振りまいていた。

マスターから頼まれた買い物は残すところあと一品。他の品物は既に買い終えていたが、数件を回ったところでとてもではないがプリメラ一人で持てはしない量になっていた。そのため、馴染みの店に頼んで後で銀翼亭まで届けてもらうことにしてある。

プリメラは宅配依頼の受付票を数枚重ねて折りたたみ、ポケットにしまう。代わりに別のポケットを探ると、中からメモを取り出す。皺になった紙を開き、最下段に記されている文字に目を落とす。

「ええと……あとは……。『アンフローシア』?」

メモに記された最後の品は、普段はあまり使われることのない食材だった。この辺りでは比較的入手しにくいことからくる知名度の低さと、素材の味を殺さずに調理するには腕がいることから、この果物はさほど多くの料理に使われるものではない。そのため、どの店にでもあるというような類の品ではなく、一般人にはなじみの薄い果物であった。その割には熱狂的な愛好家もおり、銀翼亭の常連の中にも毎回頼む者がいたりするので、切らすわけにもいかない食材なのだった。

「……これまためんどうな」

プリメラは小さく溜息をつく。とはいえ、売っている店が全く無いわけではない。実はアンフローシアは食材としてだけではなく、魔術で使う薬品の材料にもなるので普通の食料品店ではない店に仕入れられることもあるのだ。

実はこの街でも一軒、いつも並んでいる店があることを彼女は知っていたので、そこにさえ行けば手に入るだろうと考えていた。確かに珍しい品物ではあるが、めったに手に入らないというものでもない。大量に仕入れるつもりもないし、入手に関してはさほど問題はないはずである。

「それじゃ、最後の一品も買って、おつかいはさくさくと終わらせちゃいましょうか」

 プリメラはメモを丁寧に折りたたむと無くさないようポケットにしまいなおし、目的の店に向かって商店の立ち並ぶ通りを歩き出すのだった。

 

 角を曲がり、表通りから一本はずれた路地に入る。道幅が目に見えて細くなった途端に道を歩く人の数はぐっと減り、喧騒が静けさにとってかわる。両脇に建ち並ぶのはどれも越してきた年月を感じさせる建物。色あせた壁や戸板からは、どこか寂しげな印象すら漂ってくる。

「ええっと……あの店は……。あ、あったあった」

 辺りを見回しながら歩いていたプリメラは、とある一軒の店を見つけて声を上げる。彼女の視線の先にあるのは、質素なつくりの商店。裏路地にひっそりと佇むその姿は、表通りに軒をならべている大商店から比べれば粗末とすら感じてしまうかもしれない。注意して見ていなければ、見落としてしまいそうな小さな看板には、「ラガード雑貨店」と書いてある。

ここが彼女の目的地。銀翼亭のマスターが昔から馴染みにしている店である。規模の小ささとは裏腹に、珍しい食材や調味料も豊富に揃える知る人ぞ知る穴場なのであった。

「ごめんくださーい」

 雨風で色の変わった木戸を押し開け、プリメラは店内に入る。

それとほぼ同時、店内から誰かが上げた叫び声が響き、彼女の耳にまで聞こえてきた。

「ええ〜っ!? 品切れなのかよ〜!?

 思わず視線を向けると、店の奥、カウンター越しに店主と思しき人物に詰め寄る人影が目に入った。

歳は十三、四ほど。栗色の髪の毛に、大きな茶色の瞳。一般的な町人よりは多少上等な服装を身にまとい、腰には木剣を差している。全体的な印象としては、少年というよりは子どもといった方がしっくりくるような男の子だ。活動的な装いと、感情をストレートにあらわす表情からも、彼のあり余る元気が伝わってくるようだった。

不満を隠そうともしない少年の態度に、年老いた店主は頭を下げながら言う。

「申し訳ありません。最後の在庫も丁度切らしてしまったところでして」

店主の言葉に頭では納得しつつも、感情の方は抑えきれないようで、少年は腕を組んで唸った。それでもこれ以上店主に文句を言った所で意味は無いと悟ったらしく、首を振って息を吐き出し、考え込む。

「……無いんじゃしょうがない。とはいえ、アンフローシアの実をいつも仕入れてある所なんて、この店ぐらいしか知らないしなあ」

「あら、売り切れ?」

 少年の発した言葉を聞き、プリメラは思わず呟く。その声が聞こえたのか、少年は店の入り口に立つ彼女に目を向けると口を開いた。

「ん? あんたもアンフローシアの実を買いに来たのか? 残念ながら売り切れだってさ」

「あらら……」

 参ったといわんばかりの少年の声音に、プリメラも眉根を寄せる。店にはまだ幾分在庫が残って入るはずだが、折角の買出しなのだし仕入れておきたいのが正直なところだった。

「う〜ん……どうすっかなあ。師匠に頼まれてるし、手ぶらで帰るわけにも……」

 困っているのは少年も同様らしく、腕組みをしたままぶつぶつと呟き続けている。しかし、彼の表情が曇ったままであることから察するに、どうも名案は思いつけていないようであった。

「あの……お客様方」

 顔をしかめて唸るプリメラと少年に、店主がおずおずといった様子で声をかける。二人がその声に顔を向けると、彼はややためらった後、再び口を開いた。

「もし、どうしてもアンフローシアがご入用だというのでしたら……この近くで採れる場所をお教えしましょうか?」

「え? そんな場所があるの?」

 思わず聞き返したプリメラの言葉に、店主の老人は頷く。

「でも、いいんですか? 私達に教えても」

 同じ商売人として当然の問いに、店主の老人は朗らかに答える。

「構いませんよ。お二方のところにはいつもご贔屓にしていただいてますからね」

「そうですか。ありがとうございます」

 ぺこりと頭を下げるプリメラに、店主は言う。

「お気になさらないで下さい。最も私どもも小耳に挟んだだけでございますから、本当にあるかどうかまでは確かめていないのですよ。ただ、伝え聞いた話だと、最近になってこの近くでどこぞの冒険者がアンフローシアの木を見つけたとか」

「おお! じゃあそこに行けば実が手に入るな!」

 眉間に皺を作っていた様子から一転、顔を輝かせる少年。一方のプリメラは彼とは対照的にいまだ腕を組んだまま、疑問を口にする。

「う〜ん、本当かなあ?」

 彼女もこの店主のことは全く知らないわけでもないので、彼が親切心から教えてくれているのだということは十分分かっていた。ただ、情報の元が出所も分からない噂だけというのには警戒しても無理の無い話であった。そもそも、それなりに珍しい品であるアンフローシアがこの近くで取れるというのなら、銀翼亭にも噂くらい聞こえていてもいいようなものだ。彼女が全く聞いたことの無い話というのは、不安を感じるのも当然だった。

「確かに根も葉もない噂かもしれないけどさ。品切れな以上、行くだけ可能性があるんじゃないのか? アンフローシアの実、あんたも必要なんだろう?」

 ためらうプリメラに、少年が言う。その言葉も一理あった。ここ、ラガード雑貨店以外で売っていそうな店を知らない以上、今すぐ手に入れたいのならわずかでも可能性のある方法に賭けてみるのも悪くは無い。

 しばしの間悩む様子を見せていたプリメラだったが、最終的には覚悟を決めたようだった。

「まあ、行かないよりは手に入れられる可能性はあるわよね。駄目で元々、だし」

 自分に言い聞かせるように呟く彼女に、少年もうんうんと頷く。

「だよな! よっし、これで師匠に怒られないですむぜ! なあ、それってどの辺なんだ?」

「街を出てすぐ近くの森の中、とは噂に聞きましたが、あいにく細かな場所までは……」

 カウンターに身を乗り出し、アンフローシアの実がなるという場所を尋ねる少年に、申し訳なさそうに頭をかきながら老人は応える。

「うーん。街の外、かあ」

その場所は当然街を出たところだと予想はしていたものの、彼女の顔が再び曇る。魔物であるプリメラは同じ魔物娘に襲われる心配は無いとはいえ、街の外には野生の獣や追いはぎなどの危険も多く、トラブルが起こらないとも限らない。魔物とはいえ、インプの自分は荒事に向いていない。そんななか漠然とした情報だけを頼りに森の中をうろつきまわるのは、リスクが高すぎる。

だが、彼女の隣に立つ少年はそんな不安は欠片も感じていないようであった。

「だーいじょうぶだって! この辺りじゃ野盗なんていやしないし、野犬くらい俺が追い払ってやるからさ! 俺はアレイク。アレイク=エルフィードだ。よろしくな」

 少年は腰の木剣を自慢げに叩くと、自らの名を名乗る。

「え、ええ。私はプリミエーラ。インプよ。よろしく」

「木の実を見つけるまでの短い間だろうけどな。じゃ、早速行ってみようぜ!」

いつの間にか同行することになっていたことにプリメラが言葉を発するよりも早く、彼は踵を返して駆け出す。

「あっ!? ちょっと!?

アレイクと名乗った少年のあまりの楽観思考と強引さに、一瞬あっけにとられたプリメラが声をかけたその時には、彼の姿は既に店内にはなかった。

「すみません、情報ありがとうございました! こら、待ちなさいよ、君〜!?

プリメラは店主の老人へのお礼の言葉もそこそこに慌てて店を出、通りを駆け抜けてあっという間に小さくなる少年の姿を追う。何事も起こらないといいけど、と心中かすかに思いつつ、彼女は地を蹴るのだった。

 

 

3.

 

「はぁ、はぁ、はぁ……。よ、ようやく追いついたわ……」

 ラガード雑貨店を出て、疾風のように駆けるアレイクを全速力で追い、ようやくプリメラが彼に追いついたのは既に街の外、件の森の入り口であった。

「お、ようやく来たのか。待ちくたびれたぜ」

 切り株に腰掛けていたアレイクはプリメラの姿を見つけると、腰を上げて近づく。肩で息をするインプの姿を見、彼は大げさに溜息をついた。

「最初からそんな調子じゃ、先が思いやられるぜ」

「はぁ……はぁ、うるさい、わね……。そもそも、あんたが、はぁっ、はぁ……いきなり飛び出すからでしょうが……」

 ぜえぜえと喘ぎながらなんとか周囲を見回すと、木々が生い茂り昼間でも薄暗い森の様子が見て取れる。魔物との共存を唱える領主の計らいか、森には人の手が入った様子はほとんど無く、自然そのままの姿を保っている。

「う〜ん。やっぱり不気味……」

呼吸を整え、彼女は不安げに呟く。一方の少年はまるで動じた様子も無く、きょろきょろと周囲を探ると手近な入り口を探す。

「お、ここから入れそうだな。いくぞ、インプの姉ちゃん」

下草が視界を遮る中、わずかに草が掻き分けられ、道のようになっている部分があった。獣道と見紛うようなその場所を、アレイクは頓着した様子も無くがさごそとかき分け進んでいく。

「だから少しは警戒って物を……。ああ、もう!」

 まるで慎重さとは無縁の少年に苛立った声を上げるものの、アレイクはプリメラの言葉などまるで聞いていなかった。再び置いてけぼりにされてはたまらないと、プリメラは彼の姿が藪の中に完全に消える前にその背に続いた。

 

頭上を覆う枝場のせいか、森の中は薄暗くわずかに差し込む木漏れ日が所々の地面にまだらな模様を描いている。周囲を満たす音は、風に揺れる木々のざわめきと、プリメラたちが歩くたびに下草を踏む音くらいであった。

 ふと、プリメラの前方を歩くアレイクが振り返り、口を開く。

「えっと、プリン?」

 少年の口から迸った妙な単語が、自分への呼びかけだとプリメラは気付くまでたっぷり数十秒かかった。続いてその響きを認識した彼女は半ば反射的に少年への抗議を口にする。

「ちょ、ちょっとぉ! 何よその呼び方!? 私の名前はプリミエーラよ! 呼ぶならせめてプリメラとかって呼んで頂戴!」

「まあ別にいいじゃん。プリミエーラってなんか呼びにくいんだよ。そんなことよりさ、あんたは何でアンフローシアが欲しいんだ?」

 勝手に付けられた呼称への抗議を「そんなこと」扱いされ、思わず絶句したプリメラだったが、どうせこの少年との付き合いも果実を見つけるまでの間だと自分に言い聞かせ、彼の問いに答える。

「えっと、私の勤め先がね、酒場兼宿屋なのよ。聞いたこと無い?『輝く銀翼亭』ってお店」

「あ〜……あそこか。俺は行ったことは無いけど、噂話はいろいろ聞くな」

「どんな噂かはなんとなく想像付くけどね」

 納得した様子で頷くアレイクに、プリメラは苦笑する。

「で、お店で出す料理とかに使うんで、さっきのラガード雑貨店に仕入れに来たわけね。まあ、そこまで毎日使うわけじゃないから、最悪見つからなくてもなんとかはなるけどね」

「ふ〜ん」

「で、あんた……アレイク、だっけ? そっちは? 確かお師匠様がどうのとかって言ってたけど」

 プリメラの問いに、アレイクは歩みを止めずに答える。

「ああ。うちの取り置きの分がたまたま切れちまってて、俺の師匠が『買って来い』ってさ」

「へえ。あんたのお師匠様って、魔術師か何か?」

 少年の装いを見ながら、彼女は言う。料理店以外でアンフローシアを欲しがるのは魔術師か錬金術師、薬剤師くらいなものだ。いかにも冒険者に憧れる子供、といったアレイクの身なりから考えるに、その中では魔術師が彼の師匠、というのが一番しっくり来る。

「ん〜……まあ、そんな感じ」

「何よ、なんか引っかかるいい方ね」

 微妙な答えにプリメラが突っ込んだ直後、突然アレイクが足を止める。あまりに急なことで対応し切れなかった彼女は、そのまま彼の背中にぶつかる。鼻を押さえながら、プリメラは少年に抗議の声を上げた。

「いったぁ!? ちょっと、危ないじゃない!」

 だがアレイクは彼女に構わず、先ほどまでとはうって変わって真剣な表情で腰の木剣を抜きはなつ。ただならぬ様子に、プリメラはおそるおそる少年へと声をかけた。

「な、何……?」

「しっ!」

 彼女の問いかけを、張り詰めたアレイクの声が制す。その短い言葉で、思わずプリメラは口をつぐんだ。

「…………」

草の生い茂った森の中で立ち止まり、二人は緊張した面持ちで周囲を見回す。

やがて、緊張に耐えかねたプリメラが口を開こうとしたその瞬間。がさり、と風にざわめく木の葉の音とは明らかに異なる音がどこからか響いた。

「………ひっ」

無意識のうちに、彼女の口から短い悲鳴が漏れる。その声に呼応したのか、がさがさという物音は次第に大きくなり、彼女たちの所に近づいてきた。

「へっ……、くるなら来てみろ……!」

音のする方向を睨み、アレイクは不敵な笑みを浮かべて手に持つ木剣の柄を握り締める。高まる緊張にプリメラの背を汗が一筋流れたとほぼ同時、彼らの前方の茂みから音の主が姿を現した。

しなやかな体つきを灰色の獣毛で覆った、四足歩行獣。開いた口からは垂れる紅の舌と共に、鋭い牙が並んでいるのが見て取れる。慈悲の欠片すら見えない瞳は、眼前の獲物に向けられ今にも跳びかかろうと狙いを定めていた。

「ぐ……灰色狼(グレイウルフ)?」

 目の前の存在の名前を、震える声でプリメラが呼ぶ。目の前の狼は魔物ではなく純然たる野生動物ではあるが、一般人にとって脅威であることは変わりはなかった。いや、むしろ基本的に人の命を奪うことの無い魔物より、彼らの方が危険度は上かもしれない。

「ど、どうする? どうするの?」

 パニック一歩手前のプリメラは、アレイクの服を握り締めながら少年に詰め寄る。彼はインプの少女を背中に庇うように狼との間に立つと、敵を睨みつけたままで言う。

「どうするって……、やるしかないだろ?」

「無茶よ!? 逃げないと!」

 とんでもないことをあっさりと言う少年に悲鳴じみた声をあげ、プリメラが後ずさる。だが

灰色狼は折角の獲物を逃がすまいと、唸り声を上げてその動きを牽制した。

「う……」

恐怖を煽る低い唸り声に、プリメラの身体が硬直する。その瞬間を逃さず、狼は地を蹴るとと二人に向けて跳びかかった。

「こんにゃろっ!」

 前足に並ぶ鋭い爪が彼らの肉に触れるよりも早く。叫び声を上げたアレイクが手にした剣で空を払う。虚空に三日月の軌跡を残すと錯覚させるその薙ぎ払いは、空中の狼を過たず捕らえ大きく吹き飛ばした。キャイン、という悲痛な叫び声が辺りに響く。

 吹き飛ばされた狼は茂みの向こうに落下し、がさがさと壮大に音を立てる。しばし油断なく狼の落ちた辺りを睨みつけていたアレイクだったが、草を揺らす音は段々と小さく遠くなり、やがて周囲のざわめきの中に完全に消えていった。

 どうやら、アレイクの一撃で狼は戦意を喪失したらしい。

「よしっ! 俺の勝ちっ!」

 切り払うように木剣をひゅんひゅんと振り、誇らしげに勝利を叫ぶアレイク。

「…………はぁぁ〜……、た、たすかったぁ……」

 プリメラは長い息を吐き出すと、安堵に胸をなでおろす。

「な? 灰色狼くらいなら、なんとでもなるだろ?」

「確かになんとかなったけどね……」

 怖いもの知らずとしか思えないこの少年だが、確かにそんじょそこらの駆け出し冒険者よりは腕が立つらしい。もっとも、なまじ半端に腕が立つがゆえに無茶ばかりしているのだろうが。

「あんた見てるとなんだかおっかないわよ」

「そうびくびくするなって。この辺りの森じゃ、危ない奴っていったらせいぜい大蛇かさっきの狼くらいだろ? あんた一人くらいなら十分守ってやれるって」

「いや、そういう意味じゃなくてね……」

 言いかけた言葉を、再び響いたざわめきが途切れさせる。アレイクは即座に木剣を構えると一歩前に歩み出た。

「何度来ようと同じだぜ。あんたはそこで俺の活躍を見てればいいさ」

 彼は肩越しにプリメラへと振り返り、にやりと笑う。自分の力を過信する少年の態度に、彼女は口を開きかけたが、結局は何を言っても無駄だと思い溜息と共に口をつぐんだ。それに実際のところ、さっきの狼一匹程度ならこの少年の腕で十分追い払えるだろう。

 彼の楽観がうつったのかな、と頭の片隅でそう考えた彼女だったが、すぐにその考えが間違いだったと気付いた。

 下草を揺らす音が、一つではないのだ。はっきり聞き取れるものだけでも三つ、四つ……いや、七か八、下手をしたら十匹以上いる。もしそれが全部こちらに向かってきている獣だとしたら、いくら目の前の少年の腕が立つといっても、どうしようもないだろう。

「…………げっ……」

 当然、アレイクもそのことは理解しているようだった。短い呻きと共に、その横顔から余裕が消え去る。

 その間にも音はどんどんこの場所に近づき、彼女たちのすぐ側まで来ていた。草を踏む足音に唸り声が混じり、彼らを取り囲んでいく。

「や、やばい?」

「やばいに決まってるわよ!」

 強張った表情で尋ねるアレイクに思わずプリメラは叫ぶ。狼たちは彼女の声で獲物の場所を知ったらしく、こちらに向かう足を一気に速めた。彼女たちの前方の茂みが激しく揺れ、強烈な殺気が向けられる。

「に、に……」

「逃げぇ――――!?

 その様子を目にしたプリメラとアレイクは一瞬だけ顔を見合わせ、脱兎の如くその場から逃げ出す。背後を振り返るどころか、隣を走る少年のことすら構う余裕も無くプリメラは全力で足を動かした。

獲物の気配が動いたのを敏感に感じ取った狼たちは口々に吼えると、すぐさま彼らの後を追って駆け出す。強烈なプレッシャーを背後から感じ悲鳴をあげそうになるものの、なんとか堪えてその力をも逃走へと向ける。

木々の合い間を駆け抜け、下草や木の根が覆う荒れた道に足をとられないように注意しつつ、二人は全速力で狼から逃げる。相手がさっさと諦めてくれれば助かるのだが、仲間を傷つけられた灰色狼たちは決して彼らを許してくれないようで、執拗に追いすがってきていた。

「なんてしつこい……!」

 思わず愚痴る。

 当初彼女たちは森の外まで逃げ切れればなんとかなるかと思ったのだが、相手もそれは理解しているらしく、むざむざ逃してくれそうにはなかった。

時折群れから離れた狼がプリメラ達の行く手に回りこみ、森から出すまいと退路を塞いでくる。その度に彼女たちは方向転換を余儀なくされ、森の奥へ奥へと追い込まれていく。

「これは……マジでやばいかもな」

 流石のアレイクもあの数の狼相手に楽観的にはなれないらしく、その顔に焦燥を浮かべて呟く。だがその表情には恐怖や絶望よりも、悔しさの方が滲んでいた。戦いを挑めば結果どうなるかは分かっていても、ただ尻尾を巻いて逃げ出すしかないというのは少年の誇りをえらく傷つけたのだろう。追い詰められてこの顔が出来るのは、なかなかに大物である。

「ああ、折角の休みが何でこんなことに……」

 一方、最早恐怖を通り越して諦めムードが漂いだしたプリメラは、走りながら目を閉じて儚げに囁いていた。自分の不運と何の準備もせずこんな場所まで来てしまった浅はかさに嘆き、泣きたくなる。

「はぁ……っ、はぁ……っ!」

プリメラの口から荒い呼吸が漏れる。いくら彼女が魔物で人間よりも体力があるとはいえ、森の中という不安定な足場を全力疾走していればあっという間に体力も尽きてくる。

しかし速度を緩めることは出来なかった。今の速さでも、だんだんと後ろから感じる狼たちの圧力が増し、彼我の距離が確実に詰まってきている。その殺気は、追いつかれれば万に一つ、も助かる可能性など無いことを容赦なく伝えてくる。

そうこうしているうちに、またも背後の狼の一団から数匹が分かれ、彼らの進路を誘導するように前方の茂みに回りこんでくる。

「前! また回り込まれたぞ!」

「いやあぁ!! ほんとにもう!」

 アレイクの言葉に半狂乱で叫び、彼女たちは大きく右へと進路を変える。

一体いつまでこの鬼ごっこは続くのだろうか、などと頭の片隅で考えながら、樹齢数百年は下らないであろう大樹の幹を二人が回った瞬間。不意に足下の感覚が無くなった。

「……へっ?」

 間抜けな声が、自分の口から漏れたものだと理解するよりも早く、彼女の体を浮遊感が襲う。直後、二人の身体は重力に引かれ、まっさかさまに落ちていった。

「ああ…………せめて素敵な人と結婚してから死にたかった……!」

 そう呟き、涙を流しながら、プリメラは意識を手放すのだった。

 

 

4.

 

 どこから聞こえてくる、かすかな声が彼女の名を呼ぶ。どこかで聞いた覚えの有るような気がして、プリメラは記憶を探ったが、ぼんやりとした頭ではそれも上手くは行かなかった。

「ん……」

 半ば無意識のうちに口から漏れた音が耳に届き、プリメラはうっすらと瞳を開く。ぼやけた視界には、見慣れない景色が映った。陽光が遠くに見えるが、自分のいる場所は影になっているようで、目をさす明るさがまぶしい。

「お、起きたか?」

 間近で発せられた少年の声に振り向くと、すぐ側にはアレイクの姿があった。あちこち泥や埃で汚れ、肌にはいくつかの擦り傷が見られるものの、その表情を見るに十分元気そうである。

「ええっと、ここは? 私達どうなったの?」

 身体を起こし、プリメラは彼に尋ねる。

「ん〜……まあ説明するよりみた方が早いか。プリン、起きられるか?」

 わずかの間腕組みをして考え込んだ少年は、プリメラの顔を覗き込みながら問う。彼女は自分の身体を見、腕や足を軽く動かして特に問題のないことを確かめると頷いた。

「じゃ、こっち来てみ?」

 アレイクに続いて光の射す方へと向かう。ようやく気付いたが、今自分たちがいるのは洞窟……というよりは、人二人がようやく入れるくらいの小さく浅い横穴の中のようだった。

 横穴を出たところで、アレイクが振り返る。

「狼に追いかけられたのは覚えてるか?」

「う、うん」

 彼の言葉に先刻の光景を思い返し、思わずプリメラの身体が震える。尋ねた当人であるアレイクもあまり思い出したくないのか、わずかに顔をしかめた。

「まあそれでもいまこうして生きているってことは、一応助かったってわけだけどな。あんまり手放しで喜べる状況でもないんだ」

「どういうこと?」

「すぐ分かると思うぜ。周り見てみな」

 プリメラの疑問に、アレイクが答える。彼の言うとおりに周囲をぐるりと見回した彼女は、すぐにその意味を理解した。

「なに、ここ……」

「落とし穴の底、だろうな」

 つまらなそうにアレイクが呟く。その例えは言いえて妙だった。

 彼女たちのいるのは直径二十メートルほどの円形の底。それを大人の背丈の四、五倍はあろうかという壁がぐるりと取り囲んでいる。井戸のような形状のそこは、まさに自然の手が作り上げた落とし穴そのものだった。

「無我夢中で気づかなかったけど、崖があったみたいだな。逃げてるうちにあそこから落っこちちまったみたいだ」

 アレイクははるか頭上を指さす。その先には、確かに先ほど見た大樹が見えた。

「うわ……結構高さあるわね……。よく無事だったものだわ」

「ラッキーだったよな」

「はぁ…・・・。まあいいわ」

 一歩間違えれば大怪我、いや、命を落としていたかもしれない状況だったにもかかわらず、あっけらかんと言うアレイク。狼から逃げ延びて元の調子が戻ってきたのだろうが、プリメラとしては溜息をつくしかなかった。

「流石に狼たちもここまでは追ってこなかったってことみたいね」

「ああ、ただ念には念を入れて、一応上から見えないように姿を隠してたんだけどな」

 彼の言葉にプリメラはもと来た方向を振り返る。先ほどの洞穴は、この穴の壁に元から空いていた横穴だったようだ。

「いくら俺でも、人一人を運ぶのはしんどかったぜ。重かったしな」

「なっ!? し、失礼ね!? 私の体重は平均値よ!」

 思わずかっとなり、インプの少女はその背から羽根をあらわにして叫ぶが、見るからに女の子のことには疎そうな少年にはまるで効果がなかった。彼は悪びれた風もなくごそごそとポーチを探ると、取り出したものを彼女に向けて放る。

「まあそんな怒るなよ。ほれ」

 いまだ怒り収まらぬ表情でそれを受け取ったプリメラだったが、渡されたものの正体を悟ると驚愕に目を見開いた。

「えっ、これってアンフローシア!? あんた、これどうしたの?」

 両手で覆い隠せるくらいの、小さな桃色の実。表面は磨き上げたようにつるつるとしており、太陽のぬくもりが残っているのか、わずかに温かい。顔に近づけ匂いをかぐと、仄かに甘い香りがした。間違いなく、彼女たちが求めていたアンフローシアの実だ。

 驚きを顔に表すプリメラに、アレイクがいたずらっぽく笑う

「悪いことばかりじゃ無かったってことさ。ほら、向こうの壁」

「あ、あんな所に木が」

 言われて彼女が視線を移すと、周囲を取り巻く土壁の途中から一本の木が生えているのが見えた。壁から斜めに幹を延ばした木、広がる枝にはほかにもいくつかの実がなっており、さらにその真下の地面には熟した果実が何個も落ちていた。

「あんたが寝てる間に見つけたんだけどな。何でほとんど噂も聞かないのか分かったよ」

「わざわざこんな場所に来る人なんていそうに無いものね。それに魔物や獣だらけの森の中で採取するのも危ないし」

 納得するプリメラに、アレイクは麻袋を一つ手渡す。

「落ちてた実にも食べられそうな物が結構あって、たくさん取れたぜ。ほれ、プリンにも分けるよ」

「あ、ありがと」

 お礼を言いながら受け取り、中を確かめる。袋の中には桃色の実がたくさん詰まっていた。これだけあれば、少なくともラガード雑貨店に入荷するまでは持つだろう。

 これでとりあえずの目標は達成、である。

「じゃ、次はどうやって脱出するか、だけど」

「壁を登って……は無理そうなんだよな。さっき試したけど、あの土壁は脆くてとてもじゃないけどよじ登れそうにはなかった」

 本気でその方法に賭けていたらしく、残念そうに肩をすくめるアレイク。

ふと顔を上げた少年は、先ほどから飛び出したままのプリメラの羽根を見つめ、言う。

「そういえばプリンってインプだろ? その羽根で飛べないのか?」

「またその呼び方……。まあ、ちょっとくらいなら飛べないこともないけど……。この高さを、しかもあんた抱えては無理よ」

 首を振り、プリメラは彼の提案を否定する。

「そっかー」

 大して期待はしていなかったようで、アレイクは彼女の答えを聞いても特に気を落とした様子は無かった。ポケットからアンフローシアを取り出すと一口かじり、ごろりと寝そべって空を見つめる。

「どうすっかなあ」

 その様子には、先ほど狼に追いかけられていたときのような焦燥は無かった。少年に感心したものか呆れたものか分からないまま、プリメラは声をかける。

「あんた、この状況でもあんまり焦ってないみたいね」

「ん? まあ全く困ってないわけじゃないけどな。でもさっきの状況に比べたら、まだマシだろ? こうしているうちにいい考えが閃くかもしれないし、何か脱出するチャンスが巡ってくるかも知れないしな」

 なんでもないことのように言い放つアレイクに、彼女は独り言を漏らす。

「結構……大物ね」

「プリンもそう思いつめてないで、アンフローシアでも食ってのんびりしろよ。そのままでも結構美味いよ、それ。実ならまだたくさん落ちてるしさ」

プリメラの言葉に気付いた様子も無く、寝そべったままのアレイクは彼女の持つ果実に視線をやりながら言う。

「そうね……」

最早妙な呼び方をされるのに突っ込む気力もなくなった彼女は、手にしたアンフローシアの実をかじると、彼の隣に腰を下ろすのであった。

 

「ちょっと……食べ過ぎちゃったかな」

地面に落ちたいくつもの皮と種を見つめ、プリメラは溜息を付く。

狼に追い掛け回されたせいでおなかが空いていたのか、ついつい二個、三個とアンフローシアを食べてしまった。ようやく自制を効かせた彼女は麻袋の口を縛り、果汁のついた手をハンカチでぬぐう。店にもって帰る分は十分に残っているものの、冷静になってみると、これだけ食べて体重の方は大丈夫だろうかと気になってしまった。さっき「重い」などといわれたのだからなおさらである。

「だ、大丈夫……。走って運動した分でチャラよ、チャラ」

自分に言い聞かせ、それ以上考えるのを止める。ふと隣を見ると、栗色の髪の少年は緑が覆う地面に寝そべり、いつの間にか昼寝を始めていた。道理で静かなわけである。ここまでくると器が大きいにもほどがあるんじゃないかとプリメラは呆れる以外になかった。

「変な子」

 出会ったばかりだというのに、なんだかもうずっと昔から一緒にいたように馴染んできてしまっている。

 アレイクの横顔を見つめる。無茶ばかりする彼だが、こうして寝ている表情はどこにでもいるような少年にしか見えない。実際には自分の方が年上なのだが、プリメラの見かけが幼めなせいもあって、隣同士で並んでいると同い年のカップルにも見えなくは無いんじゃないか、とふと思った。

「やば……なんだろ、どきどきしてきちゃった……」

 妙なことを考えてしまったせいか、なんだか身体が熱い。このまま見つめていたらまずいことになりそうな気がして視線を逸らすものの、まるで糸に引かれるように彼女の目は眠る少年の顔へと引き戻されてしまう。

 横顔を見つめ、目を逸らし、また見つめる。そんな行動をしばらくの間繰り返していたプリメラだったが、ついに高まる熱に耐えられなくなってそれ以上の行動に出た。

「…………んっ」

 彼の上に覆いかぶさり、唇を重ね合わせる。そっと触れた彼の唇は男のものとは思えないほどやわらかく、また美味しかった。魔物娘たちから見ればままごとのようなキスでさえこれなのだから、もっと激しいキスをしたらどうなってしまうのかとインプの少女はわずかな恐怖とそれ以上の期待に震える。

 好奇心には抗えず、今度は先ほどよりも長く、強く唇を押し付ける。まだ成熟途中の、それでも女の自分とはちがう肩に手を置き、身体をも密着させた。

よほど熟睡しているのか、アレイクが目を覚ます様子は無かった。名残を惜しみながら顔を離した少女は、安堵と残念さが混じった表情で少年を見つめる。

「…………」

 栗色の髪、閉じられた瞳、厚くも薄くも無い胸板と、細いながらも鍛えられている印象の腕。

 順に視線を動かしていたプリメラの目が、やがて彼の一点で留まる。

 そこはベルトの少し下、両足の付け根の部分であった。その部分に存在する器官がどんな役割をもっているのかは、言葉にするまでも無い。

「………………んっ」

 その行為を想像しただけでも、強烈な興奮が身体を震わせる。早く繋がりたいといわんばかりに尻尾と羽根もそわそわと動き、彼女の意識をあらわにしている。

 日ごろインプとしては真面目だといわれる彼女だが、性や男女の行為に興味が無いわけではない。むしろ、魔物であるプリメラは同じ歳の人間の少女よりもそうしたことに関心を持っているのであった。

 半ば衝動的に、少年の身体を抱きしめる。服越しではあるが、彼の鼓動と体温が自分の身体の中に伝わってくる感覚は、これまでにない快感だった。さらに先にすすんだら、どれほど気持ちよくなれるのだろうか。

 そう考えつつも、ほんのわずかに残った彼女の冷静な部分はこれ以上はダメだと主張していた。出会ったばかりだとか、これでは一方的だとか、つけようと思えばいろいろ理屈はつけることが出来たが、もっとも大きな理由は単純だった。

 求めて、その結果、拒絶されることが怖かったのである。

 しかし、魔物としての本能は間近にいる男とつながり、快楽を味わいたいと叫び続けてもいた。

「これ以上は……ダメ……! で、でも……」

理性と、男を求める魔物としての本能がせめぎあう。体の中で渦巻く熱さは次第に彼女から思考能力を失わせていき、狂おしいほどの飢餓感が襲う。

ついに彼の衣服に手をかけようとした瞬間、彼女の耳は不意に響いた小さな音を捉えた。同時に、決して人や動物のものではない、魔を含んだ気配が肌を刺す。

「っ!?

 命を守るためというよりは、自分のものである少年を取られまいとする防衛本能から、彼女は素早く振り向くと全身の気を張り詰めさせた。普段することの無い鋭い視線で、辺りを睨みつける。ほんのわずかな時間が、とてつもなく長く感じられた。

しかし予想に反して、何も起こらない。

気のせいか、と彼女が警戒を緩めかけた瞬間、視界の中に一滴の水滴が落ちた。

「……? 雨?」

首をかしげるプリメラ。だが周囲には先ほどと同じように木漏れ日が射し、雨の気配は欠片もない。しばしの間地面を見ても、草を雨が濡らす様子は無かった。

 いぶかしむ彼女の視線の先で、再び水滴が落ちる。流石に不気味なものを感じ、彼女がアレイクを起こそうとした瞬間、緊張感の欠片もない声があたりに響いた。

「み〜つ〜け〜ま〜し〜た〜ぁ〜」

 間延びした声と同時、ゼリーのような巨大な塊が彼女たちの目の前に振ってくる。べちゃりと地面に張り付いたそれは半透明の身体をぷるぷると震わせると、中心部からゆっくりと盛り上がっていった。

 正体不明の物体に混乱したプリメラは、思わず叫び声を上げる。

「なっ、なに!? なにこれ!?

「……んぁ? って、なんだなんだ!?

 パニック状態のプリンの声で起こされたアレイクも、目の前の正体不明の物体に驚いた声を上げる。ゼリー状物体は二人の驚きに構う様子は無く、表面を波立たせながらゆっくりとその形を作り上げていく。

「て、敵!? 敵か!?

慌てて木剣を構えたアレイクが、先手必勝とばかりに跳びかかろうとした瞬間。

二人の頭上からまたも声が響いた。

「おおっ! いたか!?

「でかしたぞ!」

響いた声に反射的に二人が頭上を見上げると、崖の上に数人の男が立っているのが見えた。軽装の革鎧をまとい、手に山刀や棒、槍を持った彼らは崖下のアレイクとプリメラに気付くと、皆一様に安堵の表情を浮かべる。

「あれは……」

鎧や服装から、二人はすぐにその一団の正体を察することが出来た。

「この街の自警団、よね。で、状況から察するにこのぶよぶよさんは……」

 彼らの言葉や態度から、目の前のスライムの正体も理解したプリメラが、疲れたような声を出す。その声に反応し、いつの間にか女性の姿をかたどっていたスライム娘が、ぺこりと頭を下げた。

「は〜い〜。わたしも〜『じけいだん』の〜いちいんです〜。よろしく〜おねがい〜しますぅ〜」

「そういうことか。……びっくりしたぜ」

「ほんと、心臓に悪いわ」

 プリメラとアレイクは脱力して地面にへたり込むと、安堵の息を吐き出す。彼女たちの言葉を聞いても、スライム娘は一体何が悪かったのか理解はしていないようだった。無邪気な瞳で二人を見つめ、小首をかしげている。

そんなやりとりを彼女らがしているうちに、自警団の男達は手近な木にロープを括りつけ、しっかりと固定すると穴の底へと次々に降りてきた。おそらくは雑貨店の店主辺りが帰りの遅い二人のことを案じて、自警団に捜索をお願いしてくれたのだろう。

「まあ、なにはともあれ。これで……」

「たすかったぁ……」

 二人は顔を見合わせ、もう一度、長い安堵の吐息を吐き出すのだった。

 

 

5.

 

 森での騒動からしばらく後。既に空はすっかり夕暮れの色から間近に夜を感じさせる深い青に染まり、道行く人々の姿も少なくなり始めている。

そんななか、プリメラはようやく銀翼亭まで戻ってきた。自警団に街まで送ってもらった後でアレイクとは別れたので帰宅の途は一人であったが、いろいろあって疲れていた彼女にとっては、ゆっくりと自分のペースで歩くことが出来てかえってよかったくらいだった。

「ただいまぁ〜……」

見慣れた入り口の戸を押し開け、疲れた体から声を出す。

「おう、おかえり」

 インプの少女の帰還を、ヒゲ面の男性の声が迎える。いつもなら既に客で混み始める時間帯だが、臨時休業の今日、店内にはマスター以外の人影は無かった。グラスを磨いていた彼は泥やら埃やらで汚れた彼女の姿を目にすると、口元に手を当てて言う。

「なんだ、やけにぼろぼろだな」

「まあ、ちょっとね……。はいこれ、頼まれてた物の残り。アンフローシア」

 一から十まで説明する気力もなく、プリメラは果物の詰まった麻袋をカウンターに置くと、椅子に座った。マスターは袋からアンフローシアの実を一個取り出し、眺める。

「うむ。なかなかいい出来の実だな。ご苦労さん、プリメラ」

 満足げなマスターに、プリメラはカウンターの上に体を投げ出したまま答える。

「よかった。まあ、今度は足りなくなる前に発注しておいてよね」

 またあんな苦労をする羽目になってはたまらないと思いながら、彼女は言う。そんな少女の内心に気付くはずも無く、マスターの男性はわかったわかったと頷いた。

「そういえば、そっちの首尾はどうだったの?」

「……」

 ふと気になってたずねるも、マスターは黙ったままだった。ちらりと目を向ければ、悔しそうな表情を浮かべてグラスを拭く手を止めた男の姿が見えた。

「……だめだったみたいね」

 呟くプリメラに、マスターは悔しさを隠そうともせずに言う。

「だってよお! 希望者が多すぎて競売になって、こりゃ頑張れば一本くらい買えるかと思ったら、あろうことかどいつもこいつも俺の予算以上に値を吊り上げやがってよお!」

「あらら……」

「しかも、あろうことか領主様のとこまで参加してたんだぜ!? あのサキュバスのメイドさん、顔色一つ変えずに倍額ふっかけてきて……うぅ」

 みっともなくわめくマスターに慰めの言葉をかける気力も無く、プリメラは再びカウンターに突っ伏す。

 しばしぐちぐちと何かを言っていたマスターだったが、プリメラが反応を見せないのでつまらなくなったらしい。疲れ果てた様子の彼女に視線を落とすと、顎鬚を擦りながら言った。

「それにしても遅かったな。なんだ、誰かとデートでもしてたか?」

「なっ!?

 突拍子も無い彼の台詞に、インプの少女は飛び上がるように身を起こす。驚きのあまりピンと立った尻尾を見やりながら、彼はわずかに驚いたように眼を開いた。

「おお、なんだ図星か?」

「そんなわけないでしょ!」 

 完全に面白がっている様子で尋ねるマスターに、プリメラは叫ぶ。

「だいたい、相手なんて……」

 否定を続けようとした言葉が、尻すぼみに消える。デート、と言われて真っ先に思い浮かんだのが、昼間の少年と並んで歩く自分の姿だった。あの英雄志願の無鉄砲少年のことを無意識のうちに思い浮かべていた自分に、わけも分からず赤面する。

「相手なんて?」

「いない! いないの!」

プリメラは首を振って意識を無理やり切り替える。

彼女は珍妙な生き物を見るようなマスターの視線から逃れるべく席を立つと階段を駆け上り、上り、部屋に飛び込んだ。汚れた服のままにも構わずベッドに倒れこみ、布団を頭から被る。

目を瞑り、今日の出来事を頭の中から追い出そうと努力してみたが、まるで逆効果だった。彼との会話から何からわずかなずれも無く映像と音声が脳裏に再生されてしまい、彼女の顔はますます赤くなっていく。

「う〜……我ながらとんでもないことをした気がする。不覚、不覚すぎる」

 さらに、少年の寝こみを襲おうとしたことを思い返すと、羞恥で死にたくなった。が、心のどこかでちょっとだけ残念だった、と思っている様な気もする。もしまたちゃんとした機会があったら、そのときはきちんと最後まで……。

 妄想が暴走し始めたのを感じた彼女は一際強く枕に顔を押し付ける。

「そ、そんなわけないわ! ……きっと私、疲れてるのよ」

 プリメラは自分に言い訳をするように言い、もう今日は寝てしまおうと決めた。どうせシーツは洗うつもりだったし、お風呂と洗濯は明日早起きしてすればいいだろう。

 そう決めると、昼間の疲れもあってどんどん眠気が押し寄せてきた。彼女は小さくあくびをすると、布団をかけなおす。

「アレイク、って言ってたっけ、あいつ……」

 半ば無意識のうちにあの少年の顔が浮かび、プリメラは小さく囁く。その意味を考える間もなく、彼女の意識は眠りへと落ちていったのだった。

――『使い魔少女の長い午後』 終わり

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