「や〜い、ちびすけ〜」
「女男〜」

「……お前、本当に全然変わらないよな」
「普通じゃないよ。どうなってるんだ?」

――――どうして、僕は皆と違うんだろう……

―――――――――――――

『波間に夢と消えるまで』

―――――――――――――

 僕、イオが生まれ育った所は、王都から遠くはなれた辺境の地、静かな村だった。
 僕には兄弟も無く、物心ついた時には母も亡くなっており、家族はただ一人、父がある
だけだった。
 とはいえ、父は男手一つで僕をしっかりと育ててくれ、村の人々も父一人子一人の我が
家を様々な面で手助けしてくれた。そのおかげで僕らは特に生活に不自由することも無く、
慎ましやかではあるが穏やかな日々を過ごすことができた。
 そういう意味では、考えてみれば恵まれた家庭環境だったのだと思う。
 
 ただひとつ、僕に悩みがあるとすれば……自分の体のことだった。小さなころは分から
なかったし、気にしてもいなかったが、僕の体の成長は不自然なくらいに遅かった。背も
周りの同い年の子供たちよりずっと低く、ちっとも伸びる様子がなかった。僕よりいくつ
も年下の子にもあっさりと抜かれる始末だったくらいだ。歳が十をいくつも過ぎても、幼
児に間違われることすら日常茶飯事であった。
 それに関係しているのか、僕の顔立ちは荒々しい風貌の父とは似ても似つかぬ、まるで
少女のようなものであった。蒼い髪は艶やかで長く、薄い頬と線の細い体つきから、口の
悪い村人からは冗談半分で「お姫様」と呼ばれるくらいだった。

 いつまでも成長しない子供のような背丈、そして一見女の子のように見える姿のせいで、
僕は村の子供からからかわれることも少なくなかった。彼らにとっては悪ふざけでしかな
いと分かっていはいたし、からかいこそすれ常識で考えれば異常な僕のことを人々が気味
悪がりはしないだけ幸運だったのかもしれなかったけれど。
 それでもやはり、僕の心は傷つき、そして幼心に他人と違う自分の体に疑問を抱くのは
当然だった。
 人になにかを言われる、そのたびに僕は、父にどうして僕だけ皆のように背が伸びない
のか、どうして父と似ていないのか、どうしたら皆と同じになるのか、と涙を浮かべて問
い詰めたものだった。

 けれども。そんな僕に対し父はいつも、ちょっと困ったような表情を浮かべるだけだっ
た。何度尋ねても、彼は「気にすることは無い」といって決まって僕の頭をやさしく撫で
るだけで、決して僕が望む答えを言ってくれることはなかった。
 一度だけ、そんな父の態度が納得できず、泣きながら食い下がったことがある。だが、
得ることができた答えは同じだった。唯一つだけ違ったのは、その瞳の中にほんの少しだ
け辛そうな、誰かに謝るような光が灯っていたことだった。
 そして、それを見た僕は、それから僕が父に自分の奇異性について尋ねることはなくな
った。他人とははっきりと違う存在であると自覚しつつも、その疑問を無理やりに心の底
に押し込め、なんでもないことのように振舞って日々を過ごしていった。

 そんな日々が繰り返され、幾つもの月日が過ぎていった。いつの間にか数年が経ち、僕
と同い年の子供達は成長し、たくましい若者、あるいは美しい娘となって村の外へ出て行
った。代わりに結婚して村に戻ってきた者達が新たな家庭を作り、子を産み、育て、村人
達の顔ぶれはだんだんと変化していった。

 そうして村の姿が変わっていっても、僕だけはまだ、変化から取り残されていた。体は
いまだ幼い子供の姿のままで、既に成人を迎えてから久しいといっても誰も信じてくれそ
うもなかった。
 幸い、いまだに村人達は僕のことを特に詮索することも奇異の目で見ることも無かった。
きっと不思議だと思ってはいたのだろうが、もしかしたら、普通ではないということを察
してあまり立ち入ったことを聞こうとはしなかっただけなのかもしれない。それでも、古
くから僕のことを知る村人の中には育ちの遅い僕のことを案じてくれる人もいた。

 その頃には僕は、いくらなんでもこれは普通ではないと考えるようになっていた。けれ
ども、かつて見た父の寂しげな瞳のことを思い出すと、改めて自分の体について尋ね確か
めることはなんとなく憚られた。
 そうして日々を過ごしながらも、心の底に押さえ込んでいた疑問は目を逸らせないほど
大きなものとなっていった。疑問は心に漂い、ふとしたきっかけで頭をもたげては僕を悩
ませていた。
 それからまたいくつかの月日が流れた。友人達からははるかに遅れたものの、僕もよう
やく若者として見られるだけの姿へと成長することが出来、年老いた父の代わりに働きに
出ることが出来るようになった。
 その後数年間は村で父親と共に暮らし、穏やかな日々を送っていた。だが、既に村の人
間は随分と入れ替わっており、僕の体のことを知らない者も多くなっていた。
 幸い、新しく増えた村人の中に他者の秘密を暴こうと考えるようなものはいなかったが、
いつ僕の体を疑問に思い、その秘密を探り、あるいは迫害するものが現れないとも限らな
い。
 そう考えた僕は、父が亡くなったのをきっかけにこの村を出ることにした。

―――――――――――――

「よう、お客さんよ。もうすぐ目的地につくぜ」
 御者の男がかけた声に、僕の意識は回想から引き戻される。手綱を握ったままの男はこ
ちらをちらりと一瞥すると、再び前へと視線を戻す。つられて僕も視線をやれば、坂を下
りた先、馬車の行く手には蒼い海が広がり、降り注ぐ日差しを受けて海面がきらきらと輝
いていた。
 初めて目にする海に、僕は思わず息を呑む。そんな様子が珍しかったのか、御者は再び
声をかけてきた。
「なんだ、海を見るのは初めてかい?」
「ええ……ずっと故郷を出たことが無かったもので」
 そう答える僕に、彼は「へえ」と曖昧に頷く。
「にしても、わざわざこんな辺鄙な所に旅行かい? 同じく海を見るなら、もっと大きな
街が他にあるだろうに」
 わずかに呆れを混ぜた声を出す御者に、僕は小さく苦笑する。
「いえ、ここでいいんです。それに、旅行するにもあんまり大きな街だと見て回るのも大
変ですからね」
「そんなものかね。お客さんも物好きだな」
 適当な理由をあげた僕に、御者はそれ以上の興味をなくしたようだった。大方、変わり
者の旅人なのだろうとでも思っているのだろう。
 そもそも、本当のことを言っても信じてはもらえまい。僕は首から提げたネックレスに
通した小さな指輪をそっと握る。
 それは、今は亡き父が最後に教えてくれた、僕の秘密を解き明かすための鍵だった。



 父が亡くなるその少し前のある日。彼は僕を枕元に呼んだ。
「もう、私も長くは無いだろうから……。今のうちに話しておく。幼いお前が何度と無く
私に尋ね、そしてついに答えてやれなかったことについてだ」
 突然そう切り出され、僕は一瞬、父が何を言っているのか理解することが出来なかった。
 何も言うことが出来ずにいる僕をちらりと見、父は一度目を閉じる。
 再びその目を開いた時、彼の瞳の中にはかつて見た寂しげな色が浮かんでいた。
「最初に、謝っておく。私が疑問に答えられなかったせいで、随分とお前は悩んだことだ
ろう。すまなかった」
 ベッドに横たわったままの父は長く静かな息を吐くと、僕を見つめ、再び口を開く。
「そして、もうすぐ天に召されようという今でも、お前の体について、私から話してやる
ことは、できない。それについては本当に申し訳ないと思っている」
「いいよ、父さん。それはもう……」
 なんだか気まずくなって、僕はそう呟く。だが父はその言葉を遮って僕の手を取ると、
何かを握らせた。思わず手を開いてみれば、小さな指輪が手のひらに載っている。
 どこか神秘的な雰囲気を漂わせる指輪を声もなく見つめる僕の耳に、父の言葉が響く。
「もし、自分のことについて知りたかったら……。この指輪を持って、西の海にある町へ
行きなさい。そこにきっと、お前の知りたいことを教えてくれる人がいるはずだ……」
 そういって、父は声もなくベッドの側に立つ僕に、お前のことはとても大切に思ってい
る、といいながら頭を撫でてくれた。
 やがて彼の手がそっと僕から離れ、父は自分に出来ることはそこまでだ、というように
目を閉じる。僕は眠る父のベッドに寄り添いながら、手のひらに載った指輪を見つめ、先
ほどの彼の言葉を頭の中で繰り返すのだった。



「ここまでありがとうございました」
 町の入り口で馬車から降り、僕は御者の男に運賃を手渡すと頭を下げる。村を出ての一
人旅、その全てが僕にとって初の体験ばかりだった。ここまで無事にくることが出来たの
は、道に迷いかけていた僕を助けてくれた彼のおかげだといっても過言ではないだろう。
「いいってことよ。また縁があったらよろしくな」
 笑いながら言い、彼は馬にムチをくれると車を発進させる。軽快な足音と共に走り去る
馬車はあっという間に小さくなり、やがて見えなくなった。
「さて、と……ここからが本番だね」
 町の入り口、門を見上げ僕は呟く。
 不慣れゆえのトラブルもあったものの、約2週間ほどの旅路の後、何とか僕は目的の町
へたどり着いた。だがそれは終着点ではなく、僕の秘密を知るための旅はここからが始ま
りなのだ。
 決意を確かめ、僕は門をくぐる。
「……これが、海の町……」
 町の中に入ってすぐに、僕は思わず感心の声を上げた。吹く風は潮の匂いをはらんで頬
を撫で、耳を澄まさなくとも潮騒が聞こえてくる。遠くに目をやれば、空とはまた違った
青さを映し出す海。
 町の様子もあちこちに海産物を売る店があったり、漁の道具を手入れする人がいて育っ
た村とはまるで違う。辺鄙な所、とあの御者の男は言っていたが、ここには大きな都とは
違った種類の活気と、暮らしの匂いが満ちていた。
 今まで見たことも無い、新鮮な光景と空気に少し戸惑う。
「っと、感心してる場合じゃないか。うーん、とりあえずはどうしよう?」
 しばし歩いて広場らしき場所を見つけた僕は、小さなベンチに腰を下ろす。広場の中心、
ベンチに座る僕の視線の先には美しい人魚をかたどった彫刻がおかれ、僕のほかにも道行
く人が時折目をやっていた。この町のシンボルなのかもしれない。
「とはいえ、探すと言っても。どこから手をつけようかな……」
 父はこの町へ行けと言っていたが、具体的な場所も、人の名も教えてくれなかった。冷
静になって考えれば、ヒントもなしに闇雲に歩いて見つかるようなものでもないだろう。
「ヒント、か……。手がかりあるとすればこの指輪だけど」
 自分の言葉に、僕は改めて首から提げたリングを見つめる。
 この町で作られたのものなのだろうか? 薄い桃色の美しい珊瑚を加工した指輪だ。滑
らかな表面と、そこに施された装飾加工の精緻さは、素人の僕にも極めて高度な技術で作
られたものだとわかる。いや、あまりに見事で人の手で創られたのではないような気さえ
してくるほどだ。
「普通の指輪じゃないのは分かるけど、これだけじゃなあ。後で装飾品店にでも聞いてみ
ようか」
 まあ、そう焦ることもないだろう。すぐに手がかりが見つかるとは思っていなかったし。
そう考え、まずはこの町を良く知ることが先決とばかりに、僕は町中をぶらぶらと散歩す
ることにした。

「あ、あそこにも」
 視界に捉えたものに、無意識のうちに僕は呟く。僕が見上げた先、建物の壁から突き出
たポールに吊り下げられた看板には、人魚の姿が描かれている。
 町の中を歩き回っていると、すぐに、やたらと人魚をモチーフにした絵や看板があるこ
とに気付いた。これで何個目だろうか。少なくとも、もう軽く十は超えている。
「ちょっと、多すぎる気もするけど」
 海辺の町だから、海に関係した人魚の看板やら像やらがあることは自然なことなのかも
しれないが、この数の多さはそれだけではないような気がする。
 不思議に思った僕は、手近な店を見つけると尋ねてみることにした。
 

 それからしばらく後。通りを歩きながら、僕は先ほどの情報収集で得た答えを呟く。
「なるほど……人魚の町、か」
 どうやらこの町の近くには、言葉の通り昔から人魚がすんでいるらしい。聞いた話の中
には海で溺れかけた子どもを人魚が救ったとか、漁師が傷ついた人魚を助けたとか、その
真偽はともかく、いろいろと逸話が残されているようだ。
 ただ、最近は人魚の姿を実際に見かけることは少なくなったようだ。が、ときどき夜に
美しい歌声が海のほうから聞こえてくるらしく、今でもこの町のすぐ近くで人魚が暮らし
ていると住人は考えているらしい。それから何人かの住人に聞いてみたところ、答えは大
体同じようなものだった。
 冷静に考えれば、海に近い町によくある伝承の類なのであろう。きっとこの町以外にも、
似たような話はたくさんあるに違いない。
 が……何故か僕はその話に強く興味を惹かれ、日が暮れるまでその人魚の話について詳
しく教えてくれと町の住人や漁師達に聞いて回っていた。

「ふぅ……ちょっと夢中になりすぎたかな……」
 既に時刻は夜。宿のベッドに倒れこみ、天井を眺めながら僕は独り言を呟く。町の人た
ちが語る人魚の話は、何故かひどく僕の興味をそそった。その結果、今日一日でこの小さ
な町の隅から隅まで人魚について訪ねまわることになってしまった。
「変な噂にならなければいいけど」
 それでも、苦労した分の収穫はあった。
 港の漁師や酒場、町の人々に人魚について聞いてまわりなんとか集めた情報によると、
件の人魚のものといわれる歌声は、満月の夜にどこからともなく聞こえてくるらしい。は
っきりとした場所は誰も知らなかったが、聞いた話を纏めると、どうも町の外れの海岸あ
たりから響いてくるのではないかとあたりをつけることは出来た。
 幸運なことに、僕がこの町についたその晩が満月の夜。偶然、といえばそれまでなのだ
けれど、僕にはどこか運命的なものが感じられた。
「さて……会えるといいけど」
 窓から見上げる夜空には星が瞬き、真円の月が黒い海にその姿を浮かべている。心なし
か昼間よりもよく聞こえる波音を耳にしながら、僕はベッドから体を起こした。
 一階へと降り、こんな時間にどこへと尋ねる宿の主人に散歩だと答える。
 怪訝な顔をする主人をよそに、僕は宿を抜け、人々が寝静まった町に出かけることにし
た。

「…………静かだね」
 囁く僕の声が、妙に大きく聞こえる。昼間の活気とはうって変わって、町はひっそりと
静まり返っていた。既に夜も遅いせいか、通りには人影は無く、家々の灯りもほとんど消
えている。
 ここまでやって来ておきながら、正直な所、僕はあんな噂話を当てにして本当に人魚に
出会えるのか、半信半疑ではあった。いや、心の半分では人魚と出会えることを信じては
いたが、もう半分では無駄足を踏んで宿へと戻ることになる光景を思い浮かべ、覚悟して
もいたのだった。
 通りを抜け、歩き続けているうちに町外れが近くなる。数の少なくなった建物の切れ目
からは夜の海が見え、満月の光を海面が照り返しまばゆく輝いていた。
 やがて僕は町の端に差し掛かる。ここから後少し歩けば海岸に出るはずだが……今のと
ころ人魚の姿はおろか、噂になっていた歌声すら聞こえもしない。
「そんなに簡単に見つかるはず、ないか」
 やはりただの与太話だったのか、覚悟はしていたつもりだったが、軽く失望を覚える。
「帰ろう……」
 ぼそりと呟き、足を返し宿へ戻ろうかとしたそのとき、かすかだが聞こえた気がした。

――歌声が。

 耳を澄ましていなければ波音に消されて聞き逃してしまうほどかすかな歌声。だが幻聴
などではない。確かにこの耳に聞こえる美しいメロディ。
 まるでその歌声に導かれるように、僕は足を進める。初めゆっくりとした足取りはやが
て早足に、そして駆け足へとなっていく。
「はぁ……、はぁ……」
 いつのまにか、建物の姿は完全に背後の闇の中へと消え、道も獣道のような荒れたもの
になっていた。うっかりすれば足を取られ、転びそうになるでこぼこの道を僕は息を切ら
せて駆ける。
 海が近く、潮の匂いがさらに強く、波音がさらに大きくなるにつれて、僕の耳にはより
はっきりと誰かの歌声が聞こえてくる。初めて聞く歌声のはずなのに、その響きは記憶の
底に刻まれていたような懐かしさをはらんでいた。
「ここは……」
 歌声に導かれるまま進み続け、気がつくと僕は岸壁に囲まれた小さな岩場にやってきて
いた。周囲に茂る草木が自然そのままの姿を見せていることからも、この場所に人がほと
んど訪れることも無いことが分かる。
「歌声が……なくなっている……?」
 いつの間にか歌声は消えていた。先ほどの声の主を探そうと僕はあちこちを見回し……

 足を滑らせた。

「なっ!?」
 暗くて良く分からなかったが、どうやら岩場が斜めになっている部分があったらしい。
波しぶきで濡れ、打ち上げられた海草などで滑りやすくなっていた岩場できょろきょろし
ていれば足を滑らせるのも当然といえば当然だった。しかも視界の悪い夜と来ればなおさ
らである。
 さらに悪いことにはこのあたりは砂浜のようになだらかではなく、海中の部分が急に深
くなっているようだった。自分の身になにが起こったのかを理解するよりも早く、頭の先
まで水の中に沈みこんでしまい感覚が一瞬で狂う。
 落ち着いて考えれば、すぐ側に陸地があるのだから岩壁に掴まるなり、上がれそうな場
所を探すなりすればよかったのだろう。
 しかし、突然水中に落ち込んだ僕はパニック状態になり、そういったことを考える余裕
は完全になくなってしまっていた。思考の停止した僕に出来ることといえば、ただがむし
ゃらに手足をばたつかせることくらいだった。
 もともと運動も得意だったわけではなく、必死の抵抗もむなしく、僕はどんどん沈んで
いく。息が苦しい。体がいたい。恐怖と焦りで考えもまとまらない。視界も、どんどん暗
くなっていく。
(……こんな所で、自分のことも何も分からないまま……死ぬのか?)
 恐怖よりも、むなしさと悔しさで涙ににじんだ視界に、一瞬美しい少女が映ったように
見えた。頭の片隅で最期に見る幻覚としてはまあ悪くないのかな、と思いながら、僕の意
識は黒く塗りつぶされていった。



「……がふッ!……ごほ、げほ! ごほ……げほッ! ……はぁ、はぁっ!」
 体が気管に入った水を吐き出そうとして、反射的に激しく咳き込む。なんとか呼吸を確
保した体は、気だるさに包まれていた。体が重いのは、服がずぶ濡れのせいだけではない
だろう。
 うっすらと目を開くと、黒い夜空の真ん中に月が浮かんでいるのが見えた。背中にごつ
ごつとしたものが当たる。どうやら、岩盤の上かなにかに寝転んでいるようだった。
 僕は、生きているのだろうか?
 そんな考えを浮かべた体に、激痛が走る。その痛みが、生の実感を与えてくれた。苦痛
に呻きつつ、僕は首をめぐらせて周囲を見回す。
 助かったという安堵よりも、僕の頭を占めていたのはいくつもの疑問だった。
 ここは、どこなんだろうか? 誰が助けてくれたんだろうか?
(こんな時間に、こんな場所に人がいるはずが……)
 当然の疑問。だがその答えは、すぐにもたらされた。
「あ、気がつかれましたか? ……よかった……」
 不意に声が響き、僕は驚いて身を起こそうとする。次の瞬間、全身に再び激痛が走る。
「ああ! まだ無理しちゃダメですよ! 動いちゃダメです」
 途端、悲鳴のような声が上がる。全くその通りだった。僕は呻くと、体を起こすのを諦
め、岩の上にそっと横たえる。声の主が、おそるおそるといった様子で尋ねる。
「……大丈夫ですか?」
 その声には僕のことを心底心配している響きがあった。うなずいて力を抜く。
「よかった。大きな怪我はありませんから、しばらく横になっていればすぐよくなります
わ」
 安堵の吐息を漏らす声の主。僕は相手の姿を探して、なんとか動かせる首だけを左右に
めぐらす。冷静さを取り戻した頭は、なんとか周囲の状況を把握するくらいには動いてく
れるようになっていた。
 どうやら僕が寝かせられているのは、先ほどの岩場からは陰になっていた小さな砂浜、
そこにある一枚岩の上のようだ。
 首を海側に向ける。沖合いには小さな岩が波間から突き出ており、その岩のベンチに僕
の方を向いて腰掛けるようにして、一人の少女がこちらに不安げな表情を見せていた。
「…………」
 思わず言葉に詰まる。どう言い表したらいいのだろう。恥ずかしながら僕はそれほど多
くの女性を見てきたわけではないが、それでも彼女は今まで出会った女性の誰よりも美し
いと思えた。
 夜の闇の中、月光に照らされる海の色をそのまま写し取ったような深い蒼の瞳と長い髪。
波に濡れ、月明かりを受けて浮かび上がる美しい曲線を描く身体。
 夜の闇の中、おぼろげな明かりを受けて煌く彼女は、まるで少女の姿を象った芸術品の
ようでさえあった。いや、その美しさは、どこか非現実的ですらあった。
 その姿を見た瞬間、あまりの衝撃にまるで僕の時が止まってしまったかのようだったの
だから。

 僕の驚いた顔を見て、彼女はもう大丈夫と安心したのか、にこりと微笑む。彼女はその
まま、僕に背を向け再び先ほどの歌を歌い始めた。
「〜〜♪ 〜〜〜♪」
 辺りに美しい旋律が流れ、満ちていく。背後に聞こえる波の音すら、彼女の歌の一部の
ようだ。どれほど才能のある音楽家でも、これほどまでに心を打つ曲は作れないのではな
いか、そんな気さえする。
 尋ねたいことは山ほどあったが、それでもこの美しい曲をもっと聞いていたいという思
いのほうが勝った。僕は岩の上に寝転んだまま、しばし彼女の歌声に耳を傾け続けるのだ
った。

 どれくらいそうしていただろう。
 彼女の歌が終わるまで、僕は息をすることすら忘れたかのように、ずっとその場に留ま
り続けていた。身体に力が戻り、ようやく立ち上がれるようになっても、その場を離れる
ことなく、かといって彼女に近づくこともなく、ただただ立ち尽くしていた。

 やがて、彼女はゆっくりと振り返り、僕をまっすぐに見つめると優しく微笑んだ。
「また、お会いできましたね……」
 まるで今日の出会いをずっと昔から知っていたかのように、少女が言う。二人の間には
かなりの距離があったが、それでも彼女の心が伝わってくる。嬉しさ、喜び、懐かしさ、
寂しさ……言葉では言い表せない複雑な感情が、短い言葉にこもる。
「あ、あの……えっと」
 僕はといえば、いろいろなことがいっぺんに起こりすぎて、何を言っていいのか分から
なくなってしまっていた。そんな様子をおかしそうに見つめ、少女はくすりと笑う。
 そこではじめて気がついたのだが……少女の腰から下は髪と同じ、綺麗な蒼い鱗に覆わ
れた魚のものだった。その視線に気付いた彼女は、わずかにいたずらっぽく言う。
「ふふ。人魚の姿をちゃんと見るのは初めてかしら?」
 その言葉で、僕は探し求めていた人魚に出会ったことを知った。

……しかし、不思議と、驚きは無かった。

「よいしょ、っと」
 町の人々でもその姿を見たことはないというから、てっきり人魚は人を避けるものだと
思っていたが、どうやらそれは的外れの意見だったようだ。
 彼女は僕のいる砂浜の方まで泳いでくると、近くの岩場に上がり腰を下ろす。
「あっちの岩からよりも、私がこっちにきた方が話しやすいでしょう?」
 意外そうな顔をしていた僕に気付いたらしく、彼女は言う。確かに、さっきまでの岩場
だと話しづらい。聞きたいことはたくさんあるので、その心遣いはありがたいのだが。
「あ〜、何笑ってるんです?」
 無意識のうちに笑いがこみ上げてきて、顔を緩めてしまう。
「いや、『よいしょ』って。人魚もそういう掛け声使うんだな、って思ったら、つい」
 なにせさっきまで神秘的とすら言える歌を奏でていたのと同じ声で、よいしょ、なんて
いうものだから。可愛らしくて自然と笑いが漏れてしまうのも、無理のないことだと思う。
 が、彼女にとってはえらく気に障ったようだった。
「なっ、失礼ですわ! 命の恩人に向かって!」
 ぷりぷりと怒り出してしまった少女は、頬を膨らましてそっぽを向く。考えてみれば初
対面の相手を笑うなんて、明らかにこちらが悪い。
 僕は顔を引き締め、精一杯の誠意を込めて謝る。
「ご、ごめんなさい」
「まったく、いきなり笑うなんてひどいですわ」
 それでも怒りはおさまらなかったのか、人魚の少女は尾びれで海面を叩く。しばしの間
ばちゃばちゃと水しぶきを立てていた彼女だったが、僕が重ねて謝るとようやく機嫌を直
してくれた。
「もう、女性に対して笑うなんてなってませんわよ。許すのは今回だけですからね」
「はい。気をつけます」
 半眼で睨む人魚に、僕はもう一度頭を下げる。それでようやく笑顔が戻った彼女に、僕
はさっきの台詞の中で気になったことを尋ねる。
「その……命の恩人って、やっぱりさっきは貴女が助けてくれたんですね? ありがとう」
 もちろんお礼も忘れない。
「お礼なんていいですわ。こんなところであんな風に貴方に死なれては、ヴァレリーとニ
ナに申し訳がありませんもの」
「!? その、名前……父さんと、母さんの……? なんで、知って……? そうだ、そ
れにさっき『また会った』って……!?」
 彼女の言葉に、僕は思わず声を上げる。
 ヴァレリー、ニナ。それは亡くなった父と、母の名前だ。どうしてこの目の前の人魚の
少女が知っているのだろう。
 そんな僕の疑問を見透かすように彼女は微笑み、口を開いた。
「ええ、あの二人のことならよく知っていますわ。もちろん、貴方のこともね……イオ」
「……!」
 名乗ってはいなかった僕の名前まで、目の前に腰掛ける人魚はずっと以前から知ってい
たような口ぶりで答える。
 絶句する僕の様子を見て、彼女はどこか寂しそうな表情を浮かべながらぽつりぽつりと
話し始めた。
「その様子だと、最後までヴァレリーは約束を守ったのですね」
「父が……? 約束……って?」
 目の前の人魚と、亡くなった父。そこに接点を見つけられず、僕は問いかける。
「それはこれからちゃんとお話しますわ。察するに、貴方は自分のことを知りたくて、こ
の町に来たのでしょう?」
 その言葉に僕はこくりと頷く。
「うん、父さんはこの町にそれを教えてくれる人がいるからって」
「それが、私のことですわ。挨拶が遅れましたね。私はテティス。ご覧の通り、人魚……
マーメイドです」
「マーメイド……」
 その単語を繰り返す僕に、彼女は優しく微笑み、頷く。
「ええ。貴方の両親、ヴァレリーやニナとは彼らが子供のころからの知り合いですの」
ぱちゃ、と揺れる尾びれがしぶきを上げる。
 それから視線を海へと向け、テティスは胸元に手を当てると、大切な思い出を抱きしめ
るかのように、そっと目を閉じる。
 そして再び目を開けた彼女は、まるで昨日のことを語るかのように、遠い昔の記憶を呼
び起こすかのように話し出した。
「私は元々、ここから遠く離れた海で生まれたマーメイドでした。海の神に仕える神官様
の世話係として、あちこち旅をして暮らしていたのです」
「……」
「ですが、あるとき私は嵐に巻き込まれ……この町へと流されてきました。その時、怪我
をして浜辺に打ち上げられていた私を見つけたのが、まだ幼かったヴァレリーとニナ。イ
オ、貴方のお父様とお母様ですわ」
「父さんと、母さん……」
 父と、顔も覚えていない母のことを想う。テティスも同じことを想っていたのだろう。
どこか遠くを見るような目で、僕を見つめる。
「二人は、大人たちに内緒で私のことを助けてくれました。ヴァレリーは私の怪我が治る
まで薬や食べ物を持ってきてくれ、ニナは私が寂しくないようにと、時間があればいつも
側にいて話し相手になってくれました。二人のおかげでやがて怪我も癒え、私は元通り自
由に泳げるようになりました。ですが、嵐ではぐれた神官様をこの広い海で見つけること
は容易ではありませんでした。それに、神官様も私は死んだとお思いになっていることで
しょう。そう考えるようになった私は、この町の側で暮らし始めたのです。ヴァレリーと
ニナは喜び、それから、私たちはしばしばこの岩場で会うようになりました」
 きっと両親と過ごしたその日々は、彼女にとって幸せだったのだろう。声の中に懐かし
さと共に暖かな感情がこもるのを感じ、僕はそう思う。
「私は二人をかけがえのない友人のように、守るべき弟妹のように、愛する子供のように
想い、ずっと見守ってきました。やがて彼らが成長し、互いに惹かれあい、結ばれて……
イオ、貴方が生まれる所もちゃんと」
 テティスが僕に笑いかける。
「……」
 彼女に見つめられていると、なんだか恥ずかしくなって僕は押し黙った。ただでさえ綺
麗な女の子がすぐ側にいるというのに、その上自分の知らない親や自分の事を聞かされる
のだから仕方ないと自分に言い訳する。
 真っ赤になっているのだろう僕を優しく見つめる彼女の声が、不意に沈む。
「ですが、ニナは産後、病に罹り……」
「病気……」
 それは僕も父に聞いて知っていた。僕の母、ニナは僕を産んですぐ、病でこの世を去っ
たのだと。
「治らない病気ではない、少なくとも私の力ならすぐにでも治せる病だったのに……。そ
のときの私は、ニナを直したことで他の人間に見つかることが恐ろしくて、あの子を助け
てあげられませんでした」
 懺悔するような、自分を責めるような悲痛な声。
「ヴァレリーはなんども、気にするなと言ってくれましたが……。だから私はそのとき、
彼と約束したんです」
「約束?」
 さっき言っていた、父さんが守ったっていう約束のことなのだろうか? きっとそうな
のだろう。
 そして何故だか僕には確信があった。僕の旅、求めていた答えがすぐ側にある。彼女が
これから話すことがこの物語の核心で、それこそが僕の長年の疑問に答えてくれるものだ
と。
「どんな、約束だったの……?」
 僕の問いに、辛い記憶に耐えるようにテティスはうつむいた。うつむいた彼女の顔は、
夜の暗さもあってどんな表情をしているのかは分からない。
 わずかな沈黙。彼女は覚悟を決めたように再び顔を上げると、その口を開く。
「二人の子供、イオに命の危機が迫った時、どんな手を使っても助ける、と。ただし、そ
のことは誰にも、イオ自身にも知らせてはならない、と」
「僕を……?」
 僕の言葉に、テティスは頷く。
「身勝手な言い分ですが……その時もまだ、私はヴァレリー以外の人間に見つかることが
恐ろしかったのです」
「……」
 彼女の言うことは、分かる様な気もした。人魚の血肉には不老不死の力があるとは町の
噂の中で何度も出てきたことだ。それを求める人間が彼女を見つけたときに何をするのか
は、あまり想像したくはなかった。
「そして……それから半年後、流行り病にかかった貴方を連れてヴァレリーがやって来ま
したわ。そのとき、私は約束に従い貴方の命を救ったのです……」
 そこまで聞いた瞬間、不意に僕の全身を悪寒が通り抜ける。ずっと聞きたかったことな
のに、ずっと知りたかったことなのに、その先は何故だか聞いてはいけないような気がす
る。
 それを知ったら、以前の僕には戻れないような気がして。
「まって、待ってよ……命を救ったって、どうやって……? ま、まさか……!?」
 不意に昼間、町で聞いた噂話を思い出す。「人魚の血肉に不老不死の願いを求めた王の
話」、「秘薬といわれる人魚の肉を探す冒険者が町に来た」という話。
 どちらの話も、結局人魚を見つけることは出来なかったと聞いたが。
「その流行り病ぐらいなら、私の血でなくとも治せるものでした。少なくとも、かかった
のが大人だったならば。だけど、まだ幼い赤子だった貴方は、既に死ぬ寸前でした」
「……」
 僕は言葉を返すことが出来ない。人よりも異常に成長が遅かったとはいえ、今まで病気
らしい病気はしたことなんてなかったのだ。それが、赤ん坊の頃に病気で死に掛けていた、
と言われても、まるで実感がない。
「貴方を助けるためには、私は血を飲ませるしか無かった。それで貴方はひとまず命を取
り留めましたが……その後も、体調が完全に回復するまでは、お乳のほかに私の血を飲ま
せるしかなかったのですわ……」
「それ、で……」
「……ええ。結果として、貴方は助かったのだけど……」
 そこまでで言葉を切り、テティスは俯く。数瞬、海を見つめて押し黙っていた彼女だっ
たが、意を決したように顔を上げ、僕の目を真っ直ぐに見つめて語った。
「代償に、貴方の体は私たち人魚に非常に近いものとなってしまった。不老不死、とまで
はいきませんが、時の流れから切り離され、独自の時を歩むものに」
 言われている言葉の意味が、上手く把握できない。いや、頭では理解しているのだけれ
ど、数十年間体験してきたはずなのに、実感できないのだ。
 戸惑う僕を悲しげに見つめ、テティスは言葉を続ける。
「貴方も知っている通り、その体の成長はとてもゆっくりとしたものになった。多分、そ
れ以上成長や老化することは無いでしょうね。おそらく、寿命も人間のそれよりもはるか
に長く、私たちマーメイドと同じになったはずです。もしかしたらその少女のような見た
目も、少なからず私の血の影響があるのかもしれないですわ」
「人魚……テティスと……」
 そういえば、僕の顔立ちには、どことなく目の前の人魚の少女の面影がある様な気もす
る。
「ごめん、なさい……」
 ぽつり、と彼女の目から涙が一粒こぼれる。
「結局、私のわがままだったのですわ。 ニナを助けられなかった無力な自分がイヤで、
贖罪と言いながら、ヴァレリーに必要とされたくて、自分の小さな満足のために、貴方を
こんな……人とは違う体にしてしまって! ごめんなさい……イオ……。ごめんなさい、
ニナ、ヴァレリー……ごめんなさい……!」
 目の前で美しい顔を悲しみと後悔に歪め、心を引き裂くような悲しげな声で懺悔を繰り
返すテティス。 
 その様子を見た僕はいてもたっていられず、思わず彼女を抱きしめた。
「もういい、もういいんです!」
 あらん限りに叫び、許しを与える。僕にそんな資格があるとは思ってはいなかったが、
その言葉で少しでも彼女の悲しみと苦しみがやわらげられるのなら、と。
 そして、先ほどの彼女と同じようにまっすぐに瞳を見つめる。
「確かに、昔はこの体のことでからかわれたり、嫌な思いをしたこともありました。けれ
ども、それだけじゃない。テティス、貴女が僕の命を助けてくれたから、僕はこうしてこ
こにいる。貴女にもう一度出会えたんです!」
「でも……私は……」
「たとえそれが貴女が言う、貴女の自己満足や罪悪感からのものだったとしても、僕は貴
女に助けられた。それだけは、嘘も偽りも無い、真実なんだ!」
 叫び、彼女を力の限り抱きしめる。僕の言葉と、その想いが伝わったのだろうか。いつ
の間にか彼女の涙は止まっていた。
 まだ涙に濡れた瞳でこちらを見つめ、テティスは怯えた声で問いかける。
「私を、許してくださるんですか? 貴方に、ひどいことをしたのに……」
 僕は大きく頷き、彼女を安心させようと、できる限りの優しい顔と声で言葉を紡ぐ。
「もちろんです! というよりも、僕ははじめから貴女に救われたことに感謝すべきだっ
たんですから!」
 一度言葉を切り、静かに語りかける。
「だから、もう泣かないで」
「ありがとう……。貴方みたいな人ばかりだったら、私ももっと早く、人間の中で……あ
の人たちと一緒に暮らせたんでしょうね」
 少しだけ寂しそうに微笑み、テティスは目を閉じる。
 そうして、僕たちはどちらからともなく、口付けを交わした。まるでそうすることが自
然な流れであったように。そうすることが罪を犯した人魚の少女が許されるための儀式に
必要なことであったかのように。

 どれだけそうしていたのだろう。数秒か、数分か、それとも数時間か。僕達は口付けた
時と同じく、どちらからともなく口を離す。名残を惜しむかのように、つ……と唾液の橋
が月光に煌いた。
「キス……しちゃったね」
「うん……」
 頬をかきながら言う僕に、朱に染めた頬を両手で包んだテティスが囁く。きっと僕の顔
も真っ赤になっているんだろう。目の前の彼女も真っ赤だし、なにより自分の頬が今にも
火を噴きそうに熱いから分かる。
「イオ、上手……。本当は私のほうが年上なのに……」
 ちょっと拗ねたように言う、テティスが可愛らしい。そんなことを考えているだけで、
体温が上がっていくような錯覚に陥ってしまう。
 そのまましばし抱き合っていた僕たちだったが、不意にテティスが視線を逸らし、ぽつ
りと漏らす。
「いいの?」
「いいって……何が?」
 彼女の言わんとすることがいまいち分からず、きょとんとして問い返す僕に、テティス
は少しだけためらい、口を開く。
「私みたいな人魚――魔物と、『こういうことをすること』がですわ」
「そんなこと、気にしないよ。僕は――」
 僕が言いかけた言葉をテティスは首を振って遮ると、静かに言う。
「もし、他に好きな人間の女の方がいるのでしたら……。イオ、たとえ貴方の身体が私達
魔物と同じ時間を生きるものだとしても、私達と共に生きなくてはいけないというもので
はありませんのよ」
 そんなテティスの態度に、僕は悲しくなる。ここまでしたのに、僕のことを想って身を
引こうとする少女。その言葉はとても優しい思いやりから来ているのだろうけれど、同時
にとても悲しかった。
 きっと、ずっと昔から……もしかしたら、父さんや母さんと一緒にいた時でさえも、こ
んなことを考えていたのではないのだろうか。
 不意に、テティスが泡と消えてしまうようなイメージが浮かぶ。その不吉なビジョンに、
僕は必死で抗う。
 だめだ、僕は彼女を逃がしたくなんてない。
 今はっきりと分かった。僕は自分の体のことを知りたかったんじゃない。それよりもこ
の体の中に溶け込んだ彼女の血に導かれて、優しく美しい人魚の少女にもう一度会いたく
て、この町にやって来たんだと確信した。
 そしていま、彼女は僕の腕の中にいる。もう二度と、二度と離すものか。
 気がつけば僕はテティスを抱きしめ、再びその唇を奪っていた。顔を離すと、驚きに目
を見開く彼女を見つめありったけの想いを込めて叫ぶ。
「そんなこと、ちっとも気にしないし、人間と魔物なんて関係なんてない! 命の恩人と
か、人間と人魚とか、生きる時間とか関係なく、僕は……僕はテティス、貴女が好きなん
だ!」
「……!」
「この命が終わるまで……何時かのことかは分からないけれど。ずっと……一緒にいたい、
テティス、貴女に側にいて欲しい!」
 この胸の想いが全て伝わればいいと、僕は腕の中のテティスに告白する。
 最初は戸惑っていた様子の彼女だったが、僕の言葉を理解すると共にまた、涙が溢れて
きた。真珠のような涙がぽろぽろとこぼれ、頬を濡らす。今度は悲しみではなく。喜びの
ために。
「馬鹿……。そういうところ、お父様そっくりですわ……」
「そうかな……。それよりも、テティス。返事を……聞かせて欲しい」
 いまさらになって恥ずかしさがこみ上げてきた僕は、頬の熱さを感じながら言う。
 その言葉にテティスは涙を零しながらも、心から嬉しそうな微笑みを浮かべて頷いた。
「……はい。ずっと、ずっと一緒に生きましょう、イオ……」
 彼女の言葉に僕も微笑み返し、再び僕らの影が一つに重なる。
 月が二人を優しく照らし、波の音だけが周囲に響くなか、僕たちはずっとずっと抱き合
っていた。
 幸運なことに、僕たちの命は同じくらい長い。
 ずっとずうっとこうしていられる。
 そう……もしかしたら……全ては僕たちが結ばれるための運命として決まっていたので
はないだろうか。
 父と母が怪我をしたテティスと出会ったのも。僕の命を彼女が助けたことも。そして、
また僕がこの町を訪れ、彼女と再会したことも。
 いつの日か、僕も彼女もその命を終える日が来るのだろう。
 それまでは、こうして共に寄り添い、歌い続けよう。

――歌声が、波間に夢と消えるまで――



「ねえ、おにいちゃん。そのおにいちゃんとにんぎょのおねえちゃんはどうなったの?」
「けっこんしたの?」
「きっとけっこんしたよ! いいなあ。あたしもすてきなおよめさんになりたーい」
 きゃあきゃあと声を上げる幼い子ども達を優しく見つめ、石段に腰掛けた青年は微笑
む。
「さあ……どうだろうね? うん、でもね……きっと幸せになったよ」
「しあわせになったの?」
「よかったね!」
「うん! にんぎょさんもおにいちゃんもしあわせになってよかった!」
「ふふ……そうだね。ほら、この物語はこれでおしまいだよ。もう日が暮れる。みんな
おうちにおかえり。」
「はーい、おにいちゃん、またおはなしきかせてね!」
 青年の言葉に、彼の周りを囲んでいた子供達がその輪を崩し、それぞれの家に帰ろう
と駆け出す。既に日は傾き、道の上に伸びる影は長い。彼の上にも、人魚像から伸びる
影がかかっていた。
 笑いながら駆けていく子ども達の様子を優しく見つめていた青年も、やがて彼らの姿
が見えなくなったのを確かめると広げていた荷物を鞄にしまい、立ち上がる。
 彼はしばし無言で、周囲の様子を懐かしそうに見つめた。
 その背後から、声がかかる。
「郷愁? やっぱり、この町に来ると感じてたの?」
 振り向いた青年の目の前に立つのは、海の色と同じ青い髪と瞳の少女。ゆったりとし
た長いスカートには魚の鱗のような紋様が描かれて、吹き抜ける風に布がはためいてい
る。
「まあ、そんなところかな」
 曖昧に言う青年の、どこか何かを懐かしむ表情と同じように、少女もまた同じような
表情を浮かべていた。それを見、今度は青年から少女に問いかける。
「そっちだって、そんな気分だから故郷の海に泳ぎにいったんじゃないのかい?」
「まあ、それもそうですわね。この町に帰ってくるのも……久しぶりでしたもの」
 どこか遠くを見るような目で、海を見つめる少女。
 やがて彼らはどちらからともなく手を繋ぎ、歩き出した。
「さて、それじゃあ次はどんな町に行こうか」
「どこだって構いませんわよ。あなたと一緒ならね」

「イオ」
「テティス」

――歌声は、波間にまだ響いている……


――『波間に夢と消えるまで』 Fin ――


戻る