『ちいさなおはなし』


 暖かな日差しがふりそそぐ、うららかな春の昼下がり。
「ふぁぁぁ……っと。暇だねぇ」
 大通りに面した道具屋の中で、中年の店主が大きなあくびをしていた。
 店内に客の姿はなく、商品の置かれた棚が並んでいるだけ。外に目を向けても、窓には見慣れた町の景色が映るだけだった。夕方の買出し時まではまだ時間があるせいか、店の前を歩く人の数もまばらであった。
「ふむ」
 手を伸ばし、店主はカウンターに置かれた新聞を取る。ざっと目を通してみるが、載っている記事はどれも大して興味を抱かせるものではなかった。既に何度も読み返しているものなので、それも当然といえば当然であったが。
「世は全てこともなし、ってかねぇ」
 呟き、店主は新聞を無造作に投げた。再びちら、と目を外に向ける。明るく照らされた通りには、穏やかな空気が満ちていた。平和なのはいいことだが、たまには何か刺激が欲しいものだ、と自分勝手な思いを抱きながら頬杖をつく。
 春の陽気が眠気を誘い、店主の瞼をゆっくりと下ろしていこうとする。気だるさが身体にまとわりついている。このまま眠ったら、どれほど気持ちがいいだろうか。
「ふぁぁ……」
 もう一度、大あくび。なんとか意識を繋ぎとめ、こきこきと首を鳴らす。
 その時、店内に古びた蝶番がきしむ音が響いた。店主が入り口へと目を向けると、ちょうどドアが開き、小さな人影が店の中に入ってくるのがちらりと見えた。
「いらっしゃい」
 反射的に声をかけたが、その時には既に客の姿は商品棚に遮られ、店主からは見えなくなっていた。それほど高さがあるわけでもない棚に隠れてしまうあたり、ずいぶんと小柄な人物のようだ。おそらくは子どもだろう。
「はぁ〜、いろいろありますね〜」
 店主の考えを裏打ちするように、高く可愛らしい声が響く。興味深げなその声は、幼い女の子のものだった。道具屋に小さな子どもが来ることは珍しいが、お使いか何かだろうか。
「何か探しものかい?」
 珍しくはあったが、客は客だ。退屈を紛らわせるにはちょうどいいかと、店主は声をかける。それから椅子から腰を上げ、棚の向こう側へと回り込む。
 店主の声に驚いたのか、相手はわずかに身体を震わせ、それから振り返った。
「おや……」
 目にした客の姿に、我知らず店主は小さく声を上げる。
 棚の向こう、両手に商品を持ったまま店主を見つめてくるのは、彼が想像した通りに小さな女の子だった。
 見たところの歳は、十をいくつか過ぎたくらいだろう。腰まであるプラチナブロンドの長い髪に、くりくりとした大きなガーネットの瞳。しみ一つない白い肌は白磁を思わせ、生まれてこの方日焼けなどしたことのないように見える。整った顔立ちはとても愛らしく、成長すればとびきりの美人になることは間違いない。
 だがそれよりも一際店主の目を引いたのは、少女の頭の上に見える、奇妙な物体だった。
 一瞬、変わったアクセサリか何かだと思ったが、よく見ればそれは薄灰色の毛で覆われた丸い耳だと分かる。ちょうど鼠の耳のようなそれが二つ、髪をかき分けて飛び出し、頭の上にちょこんと乗っていた。
 さらに手足も耳と同じ色の柔らかな毛で覆われ、スカートの裾からは薄桃色をした細長い尻尾が伸び、静かに揺れている。
 そこで店主はああ、と納得する。この女の子は人間ではなく、魔物と呼ばれる存在なのだ。
 かつての時代はともかく、現在はこの「人と異なる異種族」を街中で見かけることも、そう珍しいことではない。この店によくやってくる者の中にもサキュバスやゴブリン、獣人といった魔物の客は少なからずいるし、人間以外の存在にいまさら驚くようなことでもなかった。
 それなのに店主が声を上げたのは、ひとえに少女から感じた意外さのためである。
 目の前の少女が着ているのは簡素な白いワンピースだが、生地といい縫製といい、一目見ただけで上物と分かった。身に付けているネックレスや髪留めといった装飾も、派手さはないがその造りの見事さから、腕のいい職人の手によるものだろう。とてもではないが、町人の買えるようなものではない。
 それに、見た目こそ幼い子どものようだが、この少女の立ち居振る舞いには不思議と品がある。子どもの客というのは大抵落ち着きなくやかましいものなのだが、彼女はそれに当てはまらなかった。
 どこかのお嬢様、だろうか。
 そんな考えを浮かべ、呆けたように少女を見つめる店主に、相手はわずかに不思議そうな表情浮かべた。だがそれも一瞬で、すぐに彼女はにこりと微笑む。
「こんにちは」
 少女の顔に、花が咲いたような可憐な笑みが浮かぶ。男ならどきりとするような、とても魅力的な笑みだった。知らず頬が熱くなるのを感じ、店主は慌てて挨拶を返す。
「あ、ああ。こんにちは」
 店主の声が上ずる。だが少女はそれに気付いた様子はなかった。
それから彼女はわずかに考え、小さく首をかしげて少しだけばつの悪そうな表情で言う。
「ごめんなさい、お邪魔でした?」
「いやいや、そんなことはないさ。好きなだけ見ていくといい」
 一瞬見とれていたことを誤魔化すように、店主は笑って言う。
それに、魔物の少女はよかった、と小さく安堵の吐息を漏らした。
 彼女が商品棚に視線を戻したちょうどその時、店のドアが再び、一人の青年が店内に飛び込んできた。二十歳にはまだ届かないくらいの、誠実そうな若者。整えられたプラチナの髪に、翡翠色の瞳。端正な風貌は上等な衣装と相まって、貴族の子弟を思わせる。
 青年は焦燥もあらわに店内を見回す。その必死さは、平和な街中には不釣合いなほどの鬼気迫るほどの緊張を宿らせていた。鷹の目を思わせるような視線が辺りを彷徨い、そして驚いたように動きを止めたままの少女と目が合った。
「!」
 無言のまま、青年が息を呑む。驚きのためか彼がわずかに目を見開いたのは一瞬。その瞳に安堵が宿り、張り詰めていた気配が霧散した。
 次いで、彼は長い息を吐き出す。
「よかった……見つかった……」
 どうやら彼はこの少女を探し回っていたらしい。彼は全身から力が抜けたようで、よろよろと壁に寄りかかった。よほど慌てていたのか、額には汗が浮いて髪を張り付かせ、喉からはぜいぜいと荒い息が吐き出される。
「あ……、あの……」
 どこか気まずそうな、少女の声がかけられる。それに青年ははぁ、と溜息をつくと、彼女に向かって歩み寄ってきた。少女の尻尾が、びくりとこわばる。それでも彼女は逃げようとしなかった。
 間近からじっと顔を見つられ、少女がわずかに震える。
「ダメじゃないか、勝手にどこか行ったら」
 子どもを教え諭すような調子で、青年は言う。その声には怒っているというよりも、少女の身を案じている色合いが強かった。それに、少女は素直に謝罪する。
「ご、ごめんなさい」
「まったく、いきなりいなくなるから心配したんだよ?」
「は、はい……」
 悪いことをしたという自覚はあるのだろう。少女心から申し訳なさそうにして俯いている。頭の上の鼠の耳も、尻尾もどことなくしょんぼりとしているように見えた。
「まぁまぁ。兄ちゃん。それくらいにしてやりなよ」
 見かねた店主が割って入り、助け舟を出す。青年はまだ少し言いたげな風をしていたが、うっすらと涙を浮かべた少女の顔を見、目を閉じて言葉を呑み込んだ。
 青年はそれから店主に向き直り、頭を下げる。
「連れがご迷惑をおかけしまして。申し訳ありません」
「いやいや、迷惑だなんてとんでもない」
「そうですか?」
 笑って言う店主にもう一度頭を下げ、青年は少女に手を差し出す。
「ほら、手。今度は離しちゃダメだからね」
「はい……」
 おずおずといった様子で差し出された手を掴む少女。その横顔を見つめる青年の表情は優しげだ。仲のいい二人なのだろう。家族か知人かは分からないが、よほど互いに信頼しあっていなければ、あんな表情は出来ない。
 その様子を見ているだけで、自然と店主の顔も緩む。
「可愛い子だね、兄ちゃん。妹さんかい? それともひょっとして、娘かい?」
 仲良さげな彼らの姿を見つめながら、からかい半分にそう声をかける店主。目の前の男女は人と魔物で種族は違うが、人間が魔物になる例というものも少なからずある。店主はそう客から聞き知っていたので、当たらずとも遠からずだろう、と思ったのだ。
 だが、青年はその言葉に何故かびくりと身を震わせ、冷や汗を一筋垂らした。
「はは、まあ……、そんなもんです」
 店主に対し、どこかぎこちなく愛想笑いを浮かべる青年。
そんな彼の態度に、おや、と店主が疑問を浮かべるとほぼ同時、魔物の少女がずい、と一歩前に出る。なんだろうか、と訝る店主の視線を受け、彼女はすうと息を吸い込み、直後口を開く。
「妹でも娘でもありません! 妻です!」
 えへん、と胸を張り、得意げな表情を浮かべる少女。その言葉に一瞬、後ろの青年があちゃあ、という表情を浮かべる。だがそれも後の祭りだった。
「妻?」
「はい!」
 店主の言葉に、少女ははっきりと答え、頷く。少女の態度には嘘を言っているような雰囲気はなかった。堂々としたその姿。そこには己の発した言葉を誇りに思う気配すらある。
 怪訝な表情を浮かべ、店主は少女を見やる。どう考えても、彼女は結婚をするような歳には見えない。けれども、魔物には実年齢と外見年齢が一致しない例など山ほどある。目の前の少女がそうした種族であっても不思議はない。ならば、既に結婚していようとおかしくはないのだが。
「え、本当に?」
「はい! 妻です!」
 声高らかにに繰り返す少女。
 それでも店主がきょとんとしたままなのは、ひとえに目の前の少女と、彼の思い浮かべた既婚者のイメージが結びつかないからだった。
 なんというか、目の前の少女からはどうにも世慣れていないような感じを受ける。青年の話から察するに街中で迷子になっていたらしいことといい、何の変哲もない道具屋に目を輝かせていたことといい、既婚者というよりかは見た目通りの幼子にしか見えない。
 ともすれば、最初に感じた通りに箱入りのお嬢様というのもあながち間違いではないかもしれなかった。
 店主は胸を張ったままの少女から、隣に立つ青年へと視線を移す。少女や青年の顔に見覚えはなかったが、そも貴族がこんな場所に自ら買出しにくることなどない。同じ街に暮らすとはいえ、顔を知らなくても当然だ。
 いったい、どういう者たちなのだろうか。
 店主の胸中では、そう問いたい気持ちが膨らんでいた。口にこそ出さなかったが、傍目から見ても事情を知りたがっているのは表情から丸分かりだろう。
好奇の目に晒されてもなお、青年は答えない。だが、彼の笑みに若干引きつったものを感じたのは、気のせいだろうか。
 しばし、妙な沈黙が三人の間に落ちる。
 やがて場の空気に耐え切れなくなった青年が、ぎこちない笑みを浮かべたまま口を開いた。
「じゃ、じゃあ僕たちはこれで……失礼しました」
 彼は少女の手を引き、いそいそとドアへと向かう。
「あっ、もうちょっと見ていきたいのに……」
「いいから」
 名残惜しげに商品棚を見つめる少女にそう言い、急ぎ足で二人は店を出て行く。
 後にはただ、ぽかんとした表情を浮かべた店主が残るだけだった。

・・・・・・・・・・・・

「ああ、もう……」
 大通りを歩きながら、青年はもはや何度目かわからない溜息を漏らす。そんな彼の様子に、隣を歩くラージマウスの少女は眉根を寄せ、不機嫌そうな顔を隠そうともせずに向ける。
「何ですか、ルクト。さっきから溜息ばかりついて」
 青年――ルクトは自分と手を繋ぐ魔物の少女を一瞥し、疲れた声でぼやく。
「だってさ……フィアッカのせいで、もうあの店行けないじゃないか……」
「何でですか。本当のことを言っただけじゃないですか」
 ルクトの物言いに、フィアッカはむっとして言い返す。そんな彼女の様子に、彼は再度の溜息と共に肩を落とした。しょぼくれた瞳が、力なく彷徨う。
「まあ、それはそうなんだけどさ……」
 フィアッカの言は、確かに間違ってはいない。
 このラージマウスの少女――フィアッカ=アーリウムとルクト=アーリウムは正真正銘の夫婦である。結婚に当たっては当初あれこれと少なからず騒動もあったものの、現在は両家からの承諾を取り付けてもある。役所にはきちんとその旨が記された書類も保管されている。
 自分たちが夫婦であること。それについて誇ることはあっても、なんら後ろめたいところなどない。
 ――と、このフィアッカは考えているのだった。
「大体失礼にも程があります。妹だの娘だの。私と貴方はどこからどう見ても夫婦じゃないですか」
 声を張り上げ、力説するフィアッカ。自身が「ルクトの妻であること」というのは、彼女にとって非常に大きなウェイトを占めている。誇りとしている、といってもいい。
 そこまで想われているのは、夫であるルクトにとっては喜ばしいことなのだが。彼女の幼い容姿のために、彼がいらぬ誤解を受けたことは一度や二度ではなかった。それに、流石に人通りのある道の真ん中で大きな声を上げるのは勘弁して欲しいものである。
 ちらりと目を向ければ、道行く人々の目が彼ら二人に注がれている。どうも、先ほどの会話は予想以上に多くの人の注目を集めてしまったようだ。もっとも、ほとんどの人は幼い子どもの言うことだと勝手に納得しているようだ。彼らに向けられる視線はどれも微笑ましいものを見るような暖かなものであり、多くはくすくすと笑いを漏らしていたりもする。
「まったく。いくらなんでも皆さん人を見る目が無さ過ぎるのですよ」
 そんな人々の視線にまるで気付いた様子もなく、フィアッカはルクトの顔を見上げる。青年の身長は成人男性の平均程度だが、種族的にも小柄な魔物であるラージマウスのフィアッカの背丈は幼い子どもほどしかない。二人の身長差のために、自然、話す際にはフィアッカがルクトを見上げる形になる。
 これで夫婦だとは思えないだろうなあ、とルクトは思う。
「そうでしょう? ルクト」
「ん、まあ、その……」
 同意を求められるが、彼には曖昧に頷くことしかできない。そんな煮え切らない青年の態度に、フィアッカの眉がますます寄っていく。むぅ、と頬を膨らませ、むくれるその姿は見た目どおりの小さな子どもそのままだった。思わずルクトも小さく笑ってしまう。
「あ、今笑いましたね? ひどい、ひどいです!」
 彼の口元に浮かんだ笑みを目ざとく見て取ったフィアッカが、顔を真っ赤にして怒る。魔物となる前、人間の頃は良家のお嬢様だったこともあって、彼女は何気にプライドが高いのだ。
「ごめん、悪かったって」
「知りません!」
 ふい、とそっぽを向くフィアッカ。それでも彼女の手はしっかりとルクトの手を握ったままだった。彼女の手を包む柔らかな毛が、心地よく肌をくすぐる。離れまいと小さな手に精一杯の力を込めているあたり、本気で怒っているわけでは無いのが丸分かりだった。
 そんなフィアッカの可愛らしさにルクトはもう一度笑いそうになるが、何とか耐えた。これ以上妻の機嫌を悪くすると、後々面倒なことになるに決まっている。もしも彼女の実家――アーリウム家に知られでもしたら、入り婿である自分がどんな目に遭うか。特に娘が魔物になってさえなお、変わらず過剰ともいえる愛を注ぐあの義父は、何をしでかすか分かったものではない。
「おお、怖い怖い」
 無意識のうちに身体が震える。脳内に浮かぶ想像が嫌な場面に差し掛かる前に、ルクトは無理矢理その考えを頭から追い出した。
「どうしました?」
 傍らのフィアッカが疑問符を浮かべて見つめてくるが、彼はなんでもない、と言ってその手を握り返す。
「ん……」
 それだけでも彼女にとっては嬉しいものらしく、頬がさっと朱に染まる。お返しとばかりにフィアッカもまた握る手にそっと力を込め、指を絡ませた。子どものように高い体温が、触れ合う肌を通して伝わってくる。
 歩き続けるうち、いつしか周囲の景色は商店街から住宅街へと移り変わっていた。二階建ての集合住宅が緩やかな坂の両側に、まるで階段のように並んでいる。そこを過ぎると、上流層の家が立ち並ぶ区画だ。ちょっとだけ立派になった建物がずらりと立ち並び、レンガや生垣で区切られた敷地の中には、それぞれ庭付き一戸建てが建っている。
 立ち止まって振り返れば、商業地区の町並みが眼下に広がる。その中心部には、時計台の尖塔が見えていた。
 みずみずしい緑の葉を茂らせる並木道を、ルクトとフィアッカは手を繋いで歩く。花々の香りが混じるそよ風が頬を撫で、穏やかな陽光が優しく二人を照らす。
 不意に、フィアッカの丸い獣耳がぴくりと動く。ふっと視線を向けた妻に倣って目をやれば、歓声を上げる子どもたちの姿が見えた。道を挟んだ向かい側で、数人の子たちが集まって遊んでいる。
「近所の子たちかな?」
「きっとそうです。元気いっぱいですね」
 二人はそんな話をしながら、楽しそうに走り回る子どもたちを見やる。
 と、そのうちの一人、一番小さな男の子が不意に躓き転んだ。
 ほんの一瞬前まで笑っていたその顔が歪み、見る見るうちに涙が溜まっていく。あっという間に決壊した瞳から、次々と涙が零れる。
 地面に倒れたまま、火がついたように泣き出した男の子に、先を走っていた子たちも足を止め、大急ぎで駆け寄る。その中で一番の年長らしきゴブリンの女の子が彼を抱え起こすが、転んだ男の子はまったく泣き止む気配を見せない。ぽろぽろと涙を零す彼の様子に、不安と焦りが急速に伝播し、周りの子どもたちも一人また一人と泣き出しそうな顔になっていく。
「あらあら、大変」
 そう言うが早いか、フィアッカは駆け出し、子どもたちに近づく。彼女はおろおろしながら立ち尽くすゴブリンの女の子に優しく微笑みかけると、泣きべそをかく男の子と視線を合わせ、ゆっくりと語りかけた。
「大丈夫? けがはない?」
「うん……だいじょうぶ……」
 彼女の言葉に、転んだ男の子は何度も頷き、しゃくりあげながらも目元を拭う。彼はいまだぐすぐすと鼻をすすり上げてはいるものの、幾分落ち着いてきたようだった。
 その様子を見ながら、フィアッカは彼の頭をそっと撫でてやる。しばしそうしていると、転んだ男の子はようやく泣き止んだ。一同の顔に、安堵の色が浮かぶ。
「ほっ……」
 離れた場所から見守っていたルクトも、思わず吐息を漏らす。
その間にも、フィアッカは転んだ男の子の服を軽くはたいて汚れを落とし、まっすぐに彼を見つめたまま、言う。
「もう大丈夫ね? ほら、皆も待ってるわ」
「うん……」
 フィアッカの言葉に、男の子はこくりと頷く。それを合図に周りで心配げに見つめていた子どもたちの中からゴブリンの女の子が男の子の前に歩み出て、彼の手を握った。
 男の子がその手をしっかりと握り返すと、ゴブリンの女の子はにっこりと笑い、口を開く。
「それじゃ、いこ」
「うん」
 その言葉に、子どもたちが再び笑顔で駆け出す。
 男の子と手を繋いだゴブリンの女の子もまた、他の子たちの後を追い、一緒に走り出した。
 途中、彼女はフィアッカを振り返り、手をぶんぶんと振りながら声を上げる。
「おねえさん、ありがとうございましたー」
「いいのよ。気をつけてね」
 手を振り返すフィアッカが見守る中で、男の子はゴブリンの少女に手を引かれ、子どもたちと連れ立って路地の向こうに消えていった。
 子どもたちの姿を最後まで見送り、フィアッカがルクトの元へと戻ってくる。
「お待たせしました」
「いやいや、お疲れさま」
 ねぎらいの言葉をかけられ、少しだけ恥ずかしそうに頬を染めたフィアッカは、ルクトと再び手を繋ぎなおす。
「みんな優しくて、いい子たちだったね」
「ええ、そうですね。でも、ちょっとおせっかいだったかもしれません」
「何、今度はきっとフィアッカをお手本に、あの子たちだけで上手くやるさ」
「そう……かもしれませんね。でも、お手本なんていわれるとちょっと恥ずかしいです」
 頬を染め、俯くフィアッカ。そんな彼女を見つめ、「子どもたちのいいお姉さん」としての姿を思い返しながら、ルクトは微笑みを浮かべた。
「さて、あまり遅くなってもいけないね」
「そうですね」
 どちらからともなく顔を見合わせ頷くと、ルクトとフィアッカは再び歩き出した。手はしっかりと繋いだまま、歩く速度を気持ち速める。
 二人の家は、もうすぐそこまでの距離になっていた。
 レンガの壁に沿って歩き、噴水広場を通り過ぎて、集会所の建物を右手に曲がる。
 そこから細くなった道を少し歩くと、見慣れた一軒家が姿を現した。
「着いたね」
「ええ」
 ルクトの呟きに、フィアッカも頷く。彼らの目の前にあるのは木造二階建てに赤い屋根を乗せた、可愛らしい家だった。この町の住居としては、一般的なものよりはやや上等な作りといえる。外見からも両隣の家と比べてもそこそこの広さがあるのが分かる。それでもアーリウム家の実家に比べれば小さなものなのだが、彼らは現状で十分満足していた。
 ルクトとフィアッカは門の鉄柵を押し開け、庭へと入る。緑の芝生の間の細い道を抜け、玄関へとたどり着くと、ドアを開けた。鍵は掛かっていない。この町の治安は非常にいいので、そんな必要はないのである。
「ただいまー」
「帰ったよー」
 フィアッカとルクトの声に、家の奥から響くがたがたという物音が応える。次いで、部屋の入り口から女の子が一人、ひょこりと顔を覗かせた。
「んー?」
 フィアッカそっくりの、プラチナブロンドを肩でそろえたラージマウスの女の子。暗紅色のくりくりとした大きな瞳が二人に向けられる。
一瞬の間をおいて、女の子は玄関に立つ二人の姿を認め、顔を輝かせた。
「あ、おとうさんとおかあさんだ! おかえりー!」
 それから彼女――ルクトとフィアッカの愛娘、長女のルフィリアは部屋の中に顔を向け、大きな声で妹たちに呼びかける。
「みんなー、おとうさんたち帰ってきたよー」
 少女の声を聞き、次々と子どもたちが姿を現す。とたとたと足音を立てながらやってきては顔を出し、玄関に立つ両親の姿を目にすると、同じように嬉しそうに顔をほころばせた。
「ほんとうだー!」
「おかえりー!」
「ねえ、おみやげはー?」
 最初に顔を出した子を皮切りに、幼い子どもたちが次々とルクトたちに駆け寄ってくる。
 皆、母親であるフィアッカと同じ、鼠の特徴を持つ魔物、ラージマウスだ。もっとも髪色や瞳の色が母親似なのは長女だけで、他の三人はみな、銀髪緑眼と父親似だったりする。姉妹だけあって顔立ちはどことなく似ているが、性格は様々で、各自思い思いの髪型と服装をしていた。
「おかーさーん」
「ママー、抱っこー」
「あー、待ってよー」
 ちなみに、上の三人の娘はほとんど同じくらいの背をしているため、一見三つ子のようにも見えるが、実際は彼女たちの歳は一つずつ違う。現在、フィアッカには四人の子どもがいるが、一番小さな子はまだ三つになったばかりであった。その末娘は歩けるようになってまだ日が浅いこともあり、駆け寄る足取りが少しだけ危なっかしい。
「ほらほら、みんな走らないの。転んだら危ないでしょう?」
 たしなめるフィアッカに構わず、先ほど一番に顔を出した長女が、まず母親に抱きつく。
「えへへー、おかーさーん、おかえりー」
「はい、ただいま」
「あー、わたしもー」
「おねえちゃんばっかりずるいー」
 娘を受けとめるフィアッカに、遅れてやってきた次女と三女も同時に飛びついた。危うく一緒に倒れそうになるのを、フィアッカはなんとかこらえる。
「きゃっ! ちょっと、あぶないからみんな落ち着いて」
 親子とはいっても娘の背丈はフィアッカとほとんど変わらないので、傍目には姉妹のようにしか見えない。
「チェルシー、服を引っ張らないの。ほら、ルフィリアはお姉ちゃんでしょう。いつまでも抱きついていないで、リコリスにも替わってあげなさい?」
 娘たちにもみくちゃにされ、少しばかり困り顔をしながらも、フィアッカの瞳に浮かぶ光は優しげだ。彼女は甘える子どもたちの頭を順繰りに撫で、その頬にキスをしていく。それに娘たちは心から嬉しそうな笑顔を浮かべ、自分たちもフィアッカにキスを返していく。
「うゅ……」
「よしよし。トリネコはパパが抱っこしような。ほら」
 姉たちに遅れ、ようやくやってきた一番小さな子を、ルクトが抱き上げる。母親にくっつく場所を姉たちに取られ、今にも泣きそうだった末娘、トリネコは彼の服を掴み、ぎゅっとしがみついた。不安げだった彼女の顔が、安心したように緩む。
「いい子だ、泣かなかったな、えらいぞ」
「ん……」
 ルクトに優しく髪を梳かれ、トリネコは気持ち良さそうに瞳を閉じた。彼の胸に頬をすり寄せ、スカートの裾から覗く細い尻尾がゆらゆらと揺れる。
トリネコの口から、穏やかな吐息が漏れる。その様子を見、姉たちが声を上げた。
「あー! トリネばっかりずるーい!」
「ずるーい!」
「パパ、私も抱っこー!」
 フィアッカから離れ、今度はルクトの元に駆け寄ってくる子どもたち。先ほどフィアッカに抱きついたのと同じ勢いで、三人の娘が彼に飛びつく。
「おっとっと。ほら、順番、順番な。みんなはお姉ちゃんだろう? 最初はトリネコからな」
 ルクトは末娘を片手でしっかりと抱いたまま、まとわりつく娘たちを撫でてやる。さらさらの髪を梳き、柔らかな毛に包まれた耳にそっと触れると、子どもたちはくすぐったそうに声を上げた。
 その様子を眺め、フィアッカは微笑を浮かべる。
「ふふ、大人気ですね」
 しがみつく娘たちを構い、腕に末娘を抱いたまま、ルクトはフィアッカへと顔を向ける。ちょっとだけいたずらっぽい笑みを口元に浮かべ、彼はラージマウスの妻へと問いかけた。
「妬けるかい?」
「ちょっとだけ……」
 呟き、穏やかな表情で夫と娘を見つめるフィアッカ。彼女の口元には変わらず微笑みが浮かんでいる。
 だが、暗紅色の瞳の奥にはほんのわずか、妖しい光が揺らめいている。それはラージマウスであるフィアッカの性欲が高ぶり、魔物として本能が強く出ているとき――つまりは、発情しているときである――に見せるものであることを、ルクトは知っていた。
 今夜は大変だろうな、とどこか諦めにも似た気持ちを抱きながら、ルクトは しがみつく娘たちと共に、リビングへと足を進めるのだった。

・・・・・・・・・・・・

 ランプの灯りが暗闇を照らす、夫婦の寝室。
 締め切られたカーテンの外には星々が煌き、満点の夜空を彩っていた。草木すらも眠っているのか、辺りには物音一つせず、静寂が満ちている。
 春とはいえ、流石に夜は冷える。部屋に置かれたベッドに腰掛けながら、ナイトガウンを纏ったルクトはわずかに身体を震わせた。
「まあ、暖炉に火を入れるほどではないか」
 一人呟き、ちらりと部屋の入り口に目をやる。と、ちょうどドアノブが回り、静かに開かれた扉からフィアッカが室内に入ってくるのが見えた。
「子どもたちは?」
「さっき寝たところです」
 ダブルベッドに腰掛けたルクトの問いかけに、フィアッカが答える。
「今夜はトリネがぐずらなかったから、よかったですね」
 ふふ、とフィアッカは小さく笑い、同時に安堵を覗かせる。見た目こそ幼い女の子だが、これでも四人の娘の母親。子どもを寝かしつけるのには、慣れたものだった。
「お疲れ様」
 ねぎらいの言葉をかけながら、ルクトは妻を眺める。今夜のフィアッカは薄桃色のベビードールの上に、レースのケープを羽織っていた。胸元のリボンと裾のフリルがフィアッカの可愛らしい印象をさらに引き立て、同時に薄手の生地からは肌が透けて、どことなく妖艶な雰囲気も漂っている。
「ルクト?」
 じっと自分を見つめたままでいる夫に、フィアッカが小首を傾げる。その声で我に返ったルクトは、少しだけ気まずそうに頬をかいた。
「あ、ああ。ごめん。ちょっと見惚れてた」
「も、もう……。恥ずかしいから、やめてください」
 フィアッカの顔が、暗闇でもはっきりと分かるほど真っ赤に染まる。
それでも小走りで駆け寄ってくる彼女を、ルクトはひょいと抱き上げた。小さな身体は見た目通りに軽く、娘を抱いているのと変わらない。
「んっ……」
 くすぐったいのか、フィアッカが小さく声を出す。そんな様子にくすりと笑うと、ルクトは自分のひざの上に彼女を乗せた。尻尾がルクトの露出した太ももに触れ、さっきのお返しとばかりにくすぐってくる。
「こら、わざとやってるだろ」
「ふふ、知りませんよ」
 抱き合ったままじゃれあい、ルクトとフィアッカは言葉を交わした。それきり黙った二人は、静かに見つめ合い、お互いの瞳を覗き込む。そこに浮かぶ光が揺らめくのは、瞳が潤んでいるせいだろうか。
 無言のまま、少しずつ縮まる距離。熱っぽく赤い頬のまま瞼を閉じたフィアッカの姿に、ルクトは胸の高鳴りを感じながら、そっと口付ける。
「ん……」
 嬉しさの混じる、かすかな音。互いの身体に腕を回しながら、唇同士を触れ合わせるだけの、子どものようなキスを何度も繰り返す。小鳥のさえずりにも似た音が、室内に響いた。
「んちゅ……、あ……っ、ちゅ、ちゅぷ……」
 いつしか彼らはどちらからともなく舌を伸ばし、深い口付けを交わしていた。舌同士が絡まりあい、お互いの口内をまさぐる。直接は見えなくとも、その艶かしい動きは触れ合う部分を通して感じ、脳裏にはっきりと浮かぶようだった。
「ふぅ……ん、んぅ……、ちゅ、ちゅぱ……っ」
 唾液に塗れた熱い舌が口内を犯すたび、興奮が高まり身体にも熱が生まれる。二人は荒い呼吸を繰り返しながら深く互いを密着させ、いっそう強く唇を吸いあった。
「あっ、やめちゃ、やぁ……んっ、ちゅう……」
 ルクトの唇が離れそうになるたび、フィアッカは切なげに声をあげ、唇を押し付ける。
「わかってるよ」
 涙を湛えた瞳を間近から見つめ、仕方ないなという風に少しだけ苦笑しながらも、ルクトもまた彼女の身体を強く抱き寄せ、キスで応えた。
「ふぁ、ちゅ、ん……」
 幸せそうな表情でルクトの首に腕を回すフィアッカ。手を包む柔らかな毛が肌をくすぐる。
 やがて、触れ合ったままだった唇が、ゆっくりと離れる。ルクトのひざにちょこんと乗ったまま、フィアッカは余韻にとろんとしたままそっと唇に指を触れさせた。キスの余熱が、じわりと指を温める。
「……あぅ」
 真っ赤に染まった顔を俯けながらも、ちらちらと上目遣いにルクトの顔色を窺う。その期待に満ち溢れた瞳にルクトはくすりと笑い、彼女のベビードールをそっとはだけさせた。
「あっ……」
 肩紐が抜け、すとんと落ちる。汗の浮いた幼い肢体がランプに照らされ、闇の中に浮かび上がった。未成熟な身体と、興奮に火照った表情のアンバランスさが、淫靡な色を際立たせる。
 ごくり、とルクトが喉を鳴らした音が、やけに大きく響いた。フィアッカの 耳が反応してぴくりと動き、頬が緩む。
「ん……、どきどき、してくれました?」
 ルクトの瞳を覗き込みながら、フィアッカは身体をもじもじさせる。せわしなく揺れる尻尾は、彼女の内心を映し出し、はやくはやくと言っているかのようだった。
「ね、ルクトぉ……」
 待ち焦がれる妻の声に、ルクトは言葉でなく行動で応える。
フィアッカを抱きしめたまま、ルクトは彼女の露出した肩にそっと口付けた。 白い肌に印をつけるように、唇で強く吸い上げる。
「……ちゅ……じゅぅう……っ!」
「んぅ、う……や、んっ……!」
 普段の彼とは裏腹な荒々しい口付けに、フィアッカは可愛らしく震えながら息を吐き出し、切れ切れに声を上げる。身をくねらせ瞳に涙を満たしながらも、それでも彼女はルクトから逃げようとはしない。
 そんな彼女の態度に信頼の証を感じ、ルクトは言い表せない嬉しさを覚える。
「フィアッカ……、こっちも、触るね……」
 妻にそう囁きながら、ルクトは指をそっと彼女のお腹に這わせた。柔らかく、滑らかな彼女の肌を、指先に感じる。
ルクトは壊れ物を扱うように、細心の注意を払いながら、指を滑らせていく。 身体のラインをなぞるように下へと向かう指に、くすぐったげなフィアッカが声を漏らした。
「ん……っ、ふ……ぁ……」
 フィアッカの反応を楽しみながら、彼はさらに指を進める。小さなへその外周をつるりとなで、腰を通り過ぎる。それからすぐに、彼の指は小さな割れ目へとたどり着いた。
「濡れてるね」
 指先に感じる水気に、ルクトが呟く。それにフィアッカは暗闇でもそれと分かるほど頬を赤らめ、消え入りそうな声で囁いた。
「そんな、こと……言わないで……あぁん」
 何度となく繰り返してきた交わりの相手であっても、やはりこうして指摘されるのは恥ずかしいらしい。
 そんな彼女に対して笑いながら、ルクトはそっと指先に力を込めた。
「あっ……そんな、いきなり……」
 彼の意図を悟り、戸惑いと恐れ、そして期待をない交ぜにしたフィアッカの声を聞くより早く、前置き無しにその割れ目の上で、ルクトは指を滑らせる。
「やっ、く、ふぅん……っ!」
 敏感な部分に触れられ、電流を流されたかのようにフィアッカの華奢な身体が跳ねる。快感に揺れる彼女の反応を確かめつつ、ルクトは指をクレバスへと差込み、その中をかき回した。
「んくっ……っ、ぁ、ああぁっ……!」
 先ほど以上に強烈な刺激に、フィアッカの背が反り返る。開いた口元からは涎が垂れ、あふれた涙が一筋、頬を伝った。
 だが彼女の身体は快感を貪ろうと、呑み込んだ指にまとわりつき、ひくひくと蠢く。熱い肉壁に指を溶かされるような感覚を与えられながらも、ルクトは彼女の弱点を執拗に責め、揺さぶった。
 しばし、暗がりに浮かび上がる影からは喘ぎ声とかすかな水音だけが響く。
 だが、不意に伸ばされたフィアッカの手が、彼の動きを制した。
「フィアッカ?」
「はぁ……はぁ……、ルクト、指だけじゃなくて……」
 ルクトの手に自分の手を重ね、押し留めたフィアッカはねだるように彼の耳元で囁く。熱い吐息が耳に吹きかかり、ただでさえぼうっとしていたルクトの思考はさらにぼやけていく。
「あ、あぁ……」
 あいまいなルクトの返事を聞きながら、フィアッカは彼の股間へと視線をずらす。そこには既にはちきれんばかりに膨らんだ、彼の男性器があった。
「ルクトも、一緒に気持ちよく……ね?」
 慈愛に満ちた表情の中に、どこか淫靡な色を覗かせながら、フィアッカは彼のものに触れる。
「うく……」
 思わず漏れた夫の声に、嬉しそうに目を細め、彼女は笑った。
「ふふ、待ちきれないのは、貴方も一緒みたいですね」
 ころりとベッドに寝転がったフィアッカが、両手を広げてルクトを招く。
「ね……貴方……」
「ああ、いくよ……」
 妻の呼び声にうなずき、その腕が背中に回されるのを感じながら、ルクトはそっと自分のものを妻へと埋めていく。

 ランプに照らされ、壁に映った影が一つになり、やがて動き出すと、室内には獣たちの悦びが響き始めるのだった。

・・・・・・・・・・・・

 部屋を染める灯がかすかに揺れ、映し出された影が震える。
 情事の余韻が残る身体を寝台に横たえたまま、ルクトとフィアッカはぴったりと寄り添っていた。どこからか忍び込んだ夜気が、肌を撫でる。ひやりとした冷気が、火照った身体に心地よい。
 全身を包む気だるさに眠気を呼ばれながらも、ルクトはぼんやりと天井を見上げていた。小さなランプの火も天井までは届いていないのか、視界は闇に覆い隠されていた。黒く塗りつぶされたそれは、まるで底なしの沼のようにも思える。
 胸元に感じるのは、フィアッカの吐息。ルクトの上に覆いかぶさるように伏せる彼女と触れ合う肌を通じて、穏やかな鼓動が伝わってくる。その規則正しいリズムがまた、子守唄のようにルクトの意識をまどろみへと導いていく。
 下がりだした瞼を持ち上げ、ルクトはそっと視線を動かす。
 暗がりの中、すぐ側には静かに目を瞑り、頬を寄せるフィアッカの姿がある。灯りに浮かび上がる横顔は、先ほどまでの淫らな様子とはうってかわって、あどけなさを色濃く映す幼子そのものだった。だが肌に浮いた汗と、額に張り付く前髪が、交わりの気配をかすかに残している。
「ん、ルクト……」
 小さく開いた口から、囁く声が漏れる。どうやら彼女の夢の中でも、この二人は一緒のようだった。それだけ、繋がりが深いのだろう。
「どんな夢を見てるのやら」
 口元に微笑を浮かべながら、ルクトはずれかけた毛布をそっと引っ張り上げ、フィアッカの肩まで掛けてやる。その拍子に彼女の身体がもぞもぞと動いたが、どうやら無意識の反応だったようだ。フィアッカは目覚めることなく、小さな手で毛布をきゅっと握ると再び静かな寝息を立て始める。
 しっかりと握っているのを見るに、どうやら柔らかな毛布が気に入ったようだった。そんな可愛らしい妻の仕草に、ルクトは小さく笑った。
「ふふっ、こうしていると本当、昔のままだね」
 静かに吐き出したルクトの吐息が、空気を揺らす。そのかすかな音にも反応し、フィアッカは柔らかな毛に包まれた耳をわずかに動かした。
それでも、少女を包む雰囲気は変わらない。安心しきっているのだろう。彼女の寝顔は何の不安も感じていないような、安らかなものだ。
 その顔を見ているだけで、ルクトも幸せな気持ちになれた。微笑を湛えたまま、彼女を起こさないよう、髪の毛を優しく撫でる。それにフィアッカは、気持ち良さそうに頬を緩めた。
「んぅ……」
 わずかに身じろぎをするフィアッカ。その拍子に彼女の尻尾がルクトの肌をくすぐった。人の肌とはまた違った尻尾の肌触りは、何度触れても不思議な感じがする。
 髪の毛から覗く鼠の耳や、肌に触れる尻尾を感じながら、ルクトは自分が抱いている妻が、魔物であることをいまさらながらに実感する。
「苦労したものなあ……」
 自分の言葉に、思わず苦笑が漏れる。今でこそこうして妻と娘と共に静かに過ごせているものの、数年前――フィアッカが魔物になってしまったばかりの頃や、その後反対する周囲を押し切って結婚を決めた時、そして初の子どもが出来た時――には両家をも巻き込んで、毎日のように大きな騒動が起こされたものだった。
思い返せば、本当によくここまでこれたものだ、とすら思う。
 それでも、万事全て上手く行ったわけではない。手に入れたものばかりではなく、失ったものも、少なからずある。
 けれど、ルクトに後悔はなかった。愛する女性がこの腕の中にいて、可愛い娘たちにも恵まれた。何より自分たちは望みを叶えたのだ。何を悔いることがあろうか。
「ルクト?」
 不意に響いた妻の声に、ルクトは意識を思考から現実へと向けなおす。見れば、フィアッカが上目遣いに彼の顔を覗いていた。どうやら、いつの間にか目を覚ましていたらしい。
「ああ、ごめん。起こしちゃったかな?」
 フィアッカの視線を受け止めながら、ルクトは言う。室内に満ちる闇の中でも、灯りに照らされた彼女の瞳は輝き、まるで星が瞬いているようだった。
「ううん」
ルクトの言葉に、フィアッカは彼の胸に頬を当てたまま、ふるふると小さく首を振る。その拍子に柔らかな髪が彼に触れ、肌をそっと撫でた。かすかに、いい匂いがする。
そんなことをルクトが考えていると、フィアッカはもう一度彼の顔を覗き込み、くすりと笑た。幼い顔に、どこかいたずらっぽい表情が浮かぶ。
「どうしたの?」
 一体何が可笑しかったのだろう、と不思議がるルクトに、フィアッカは笑みを浮かべたまま言う。
「なんだか、貴方が楽しそうだったから」
「そうかい?」
「うん、笑ってた」
 そう言って、フィアッカはルクトの頬に手を伸ばした。
そっとルクトに触れた小さな指が、輪郭をなぞる。彼女の手のひらは柔らかな獣の毛に包まれ、触れる手つきも優しげだった。そのくすぐったさに、ルクトは目を細める。
 彼女の小さな手を掴み、壊れ物を扱うかのように優しく握る。
「あ……」
 漏らした声は、驚きよりも嬉しさが色濃く滲んでいる。指を絡めるフィアッカと見つめあいながら、彼はその手を静かに布団へと下ろした。
「ふふっ」
 笑い声を上げるフィアッカに、ルクトの視線が注がれる。彼が問いかけるよりも早く、彼女は口を開き、言葉を続けた。
「なんだか、昔のことを思い出しちゃいました」
「奇遇だね。僕もさっきまでそうだった」
「小さい頃、一緒にお昼寝したときはいつも、こうして手を握ってましたね」
「よく覚えてるね」
「もう……忘れるわけ、ないじゃないですか」
 少しだけむくれた様子で、フィアッカが言う。
「そっか、ごめん」
 呟き、ルクトは天井を仰ぎ見る。フィアッカもまた、記憶を再生するように暗闇を見つめた。
目の前の暗闇に、在りし日の思い出が次々と映し出されていく。そういえば、子どもの頃はいつもこうやって、二人で手を繋いでいた。
お互いに他の誰よりも触れたのはこの手だと言えるくらいに、馴染んだ感触。どんなに苦しかったときも、辛いことがあったときも、この手のぬくもりがあれば何も怖くはなかった。どんなことさえも、乗り越えられる気がした。
 その思いが伝わったのか、フィアッカもまた、ルクトの手をぎゅっと握った。
ルクトが顔を向けると、夫を見つめる瞳がすぐ側にある。
フィアッカはルクトを見つめたまま、小さな吐息と共に囁く。
「……いろいろ、ありましたものね」
「まあね。大変だったのはもちろんだけど――今思えば……楽しくもあった、かな?」
「そうかも……しれませんね」
 ルクトの言葉に、小さく笑うフィアッカ。
 彼女はすっと視線を逸らし、片手を胸元に当てると、そっと目を伏せる。
「まさか自分が魔物になるなんて、考えたこともありませんでしたけど……」
「けど?」
「こうして貴方と一緒になれたから、それでもいいかな、って」
自分の気持ちを改めて確かめるように、静かに目を閉じるフィアッカ。
その表情は過ぎ去った日々を懐かしむような、大切な思い出を眺めるような――柔らかなものだった。きっと言葉の通り、魔物になってしまったことも苦とは思っていないのだろう。
 想いを込め、瞳を開いたフィアッカはルクトの手をさらに固く握り締めて、囁く。
「だから、私は幸せですよ、ルクト」
 偽りの無いまっすぐな気持ちを、視線に乗せて伝えるフィアッカ。
 それにルクトもまた、同じようにしっかりと彼女を見つめ、妻の手を握ることで応えた。
「……うん。僕もだよ」
 微笑みながら見つめ合う人は、どちらからともなく唇を重ねる。重なり合った二人の鼓動がゆっくりと溶け合い、響いていく。全身に暖かなものが満ちる幸福を感じながら、ルクトとフィアッカはお互いの身体を強く抱きしめ、深い口付けを交わした。
「……ん」
 永遠にも思える程の長いキスを終え、重なり合った二人の唇が、ゆっくりと離れる。それでもフィアッカは物足りないとでも言うかのように、名残惜しげな表情で自らの唇にそっと指を触れた。
 まるでお菓子の足りなかった子どものような妻の仕草に、ルクトは苦笑する。
「ほら、フィアッカ。そんな顔しないで、今夜はもう寝よう?」
「そんな顔って何ですか。私は、別に……」
むくれるフィアッカの髪を、ルクトは手で優しく梳いてやる。頬を膨らましていた彼女だったが、すぐにうっとりと目を細め、彼に身を預けた。
「そろそろ休もうか」
「ええ」
 フィアッカがひとしきり堪能し、機嫌を直したのを見、ルクトはランプの火を吹き消す。炎の残り香をかすかに漂わせながら、室内は漆黒の闇に沈んだ。
 それでも、触れ合う肌と響く息遣いが、すぐ側にいる愛しい相手の存在確かに伝えてくれる。その感触がもたらす安堵が、心地よい眠気と共に意識をまどろませていく。
「おやすみ、フィアッカ」
「ええ、おやすみなさい、ルクト」
 短い言葉を交わし、二人はゆっくりと瞳を閉じる。
 ――明日もまた、幸せな一日でありますように。
 ささやかな願いを胸に抱き合いながら、二人は安らかな眠りへと落ちていくのだった。

『ちいさなおはなし』終わり

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