『ゆりかごの中の少年少女』
「と、このように今から約三百年ほど前に最後の抵抗勢力であった地方が平定されると、ついに全土の統一が実現しました」
室内には教師が黒板に文字を書く音と、説明をする声。そして時折生徒達が本の頁をめくる音だけが響き、独特の雰囲気を作り出しています。
顔を上げた生徒達が黒板に視線を集中させたのを見て取ると、教師の女性は再び口を開きます。
「統一後間もなくは制度改革など様々な問題があったわけですが、そうした制度の整備などもそれから数十年の間にはほぼ完了します。以後は皆さんも知っている通り、今日に至るまでこの世界において大きな争いはなく、平和な時代が到来したわけですね」
手にしたチョークで黒板を叩き、教壇に立つ先生が私達を見回します。
先生の補足説明を聞き、真面目な生徒達がペンを走らせる音が響きます。真剣な表情で黒板を見つめ、先生の言葉を一字一句逃さずノートに書きとめようとする方々の集中力には賞賛を贈りたくなります。いったいどうしたら授業にあれほど夢中になれるのでしょうか。きっとこのような勤勉な人たちが後々世のため人のためのお仕事をするような大人になるのでしょう。
一方でそうした空気をものともしない方々は、この時間を体力と精神力の回復――つまりは睡眠ですが――に使っていたりします。彼らは授業開始の号令後、椅子に座るやいなや立てた教科書を遮蔽物にして教師の目を欺き、組んだ腕を枕に頭をおいて静かに目を瞑って過ごすのです。視線を正面からやや左にずらすと、私の友人の一人も夢の世界に突入しているのを見ることが出来ました。堕落の極みです。
でも。気持ちよさそう。
いや、だめです。授業中に寝てはいけない、私だってそれは分かっています。
しかしながら、人間が眠気に負けるのも無理からぬことなのです。特に今日は穏やかな午後の空気が暖かく私達を包み込み、まるで布団の中にいるような錯覚を受けますし、窓から差し込む日差しは薄手のカーテンで程よく減光され、室内は眠るには丁度よい明るさになっています。こういう状況において気を抜けば、睡魔という魔物があっという間に人の意識を深淵へと沈めていくのです。
授業中に寝るなというのは、真面目な生徒などの一部を除いた大多数の学生にとって、ある種の不可能命題なのです。
教室内にいる生徒は私を含め、三十四人。大体二割ほどが「真面目な生徒」、別の二割ほどが「不真面目な生徒」です。
では、私はそのどちらに属すのかといえば、どちらにも属していません。授業の最初から最後まで起きていられるほどの集中力はなく、かといって最初から最後まで熟睡するほどぐうたらでもない。
つまり授業をほどほどに聞き、ときおり意識が飛ぶ、という学習態度の極めて一般的な学生なのです。キャラクター特性としては毒にも薬にもならず、面白味はないですが得てして世の中の大多数はこうした者たちなのです。
あ、そんなことをいっているうちにどうやら私が授業に集中できる限界時間が来たようです。人間が集中できる時間とは、想像以上に短いものなのです。
私の意思に反して、だんだん瞼が下がって――
「さて、ここまでで何か質問は……って、こらそこ寝るなー!!」
「ひゃわっ!?」
誰かが発した叫びが耳に届いたと思った瞬間、額に衝撃。私は思わず悲鳴をあげ、おでこに手を当てて辺りを見回します。視界の端に映った、机の上から転げ落ちる白い小さな物体はおそらくチョークでしょう。察する所、先ほど私の額にぶつかりダメージを与え眠気を吹き飛ばしたのはあれに違いありません。
まったくひどい話です。一体誰があんなものを人に向けて投擲したのでしょうか。犯人は「人に向けてチョークを投げてはいけません」と親から教わらなかったに違いありません。
と、内心憤慨する私に、再び声がかかりました。
「お〜い、目が覚めた〜?」
「はえ?」
声の方向に目を向けると、笑みの中に呆れが混じった表情を浮かべ、腕組みをしてこちらを見つめる女性が映りました。学者らしいゆったりとしたローブが、彼女の落ち着いた雰囲気とよく似合っています。腰まで伸びた艶やかなブロンドと、切れ長の目が印象的な顔立ちは一度見たら忘れるわけがありません。
先生です。
「あ、え〜と?」
思考を落ち着かせ、途切れかけていた記憶を修復します。同時に現在状況の把握を開始。教壇には腕を組み、教科書を持った先生の姿。視線を左右に動かせば、席についたままこちらを見つめる生徒の瞳。壁にかけられた時計は、最後に見たときより随分進んでいる気がします。が、その針は授業終了までまだまだ時間があることを示していました。
そうです。今は授業中なのでした。どうやら瞼が下がったと思った瞬間、あっさり意識が飛んだようです。ついでに主観時間もいくらか飛んでいました。
「私の授業中に寝るなんて良い度胸ね。何か弁解、異議申し立ては?」
笑顔の中に強烈なプレッシャーを持って問いかけてくる先生に、半ばパニック状態の私はしどろもどろになって答えます。
「いえその、近頃いっそう春めいてきたのを感じさせる暖かな空気が生み出す催眠魔法効果は、お昼ごはんを食べた後の血液不足な頭には思った以上に強力に作用して、ですね……」
「あらあら、それじゃ貴女は授業中、常に『睡眠防止の護符』でも装備してなきゃいけないわね。それでも、この陽気の前では効果があるかどうかは疑わしいけど」
私が答えている最中に、先生は教壇を下りてこちらに向かって「這いずって」きました。とはいえ、何も先生が室内で匍匐前進をしているというわけではありません。これが彼女の通常の移動スタイルなのです。
なぜなら、教卓の後ろから現れた先生の下半身は巨大な蛇のものになっていたからです。私達のクラスの担任であり歴史の先生でもある彼女の正体は人間ではなく、女の人の上半身に蛇の下半身を持つ「ラミア」という種族なのです。
「気持ちよさそうに舟をこいでくれちゃって」
口から漏れた言葉と共に、先生の目がすっと細まります。口元からかすかに舌がのぞいたのは、どういう意味なのでしょうか。あんまり考えたくありません。
「あ、あうあう……」
目の前に来た先生の鋭い瞳に睨まれ、私の体はすくみあがります。まさに蛇に睨まれた蛙。
どんな罰を下されるのかとがくがくと震える私に、彼女はくすりと笑みを漏らします。
「眠くなるのも分からないではないけれど、もうちょっとだけ頑張りなさい。……それと、後で職員室にくること」
「……はい」
指先で額をつつかれ、下された判決に蚊のなくような声で答えたと同時、私をクラスメイトの笑い声が包みました。
は、恥ずかしい。
・・・・・・・・・・・・
魔王様と魔物の皆さんが世界を統一してから、はや数世紀。この世界の姿と国の仕組みが大きく変わってから久しく、人々は既に今の「世界のかたち」を当たり前のものとして受け入れ日々を暮らしています。
あ、ちなみに「魔物」というのは実際には様々な姿形を持つ各種族を総称する言葉で、私のような「人間」と区別しての便宜上の呼び名です。現実には「魔物」という名の種族はおらず、「サキュバス種」や、「ワーウルフ種」、「スライム種」などと各種族それぞれに分類する名称(さらに言えば、さらに細分化された型の名称)を持っています。
ですが、日常の中ではそうした名前を使うことはあまりなく(めんどうくさいので)、サキュバスも獣人も人間族も基本的には一緒くたにして、「人類」とされています。
かつては魔物と人間族は世界の覇権を争い、幾度となく大きな争いを繰り返してきたといいます。が、現在でははじめに説明したとおりそうした争いは影も形もなく、双方は「人類」という一つの種族としてこの地で暮らしています。「魔物」の中には長命なものも多く、当時の様子を見てきた人も多く存在するらしいのですが、私達「人間」はそれほど長く生きられないので、魔物と人間の争いの歴史や、人間がこの地に栄華を誇った時代というものは知識として知っていても、その実感を持っているものはほぼいないと言っていいでしょう。
現在では「人類」の大半を占めるのは多種多様な「魔物」の皆さん。私達の種、「人間」は
数百年前の全盛期に比べてその数を大きく減らしています。いわば種としての栄華ははるか遠く、斜陽の時代に突入している状態です。
身体能力、寿命、種族ごとに持つ固有の特性や能力など、生物種としては「魔物」の方が「人間」よりもはるかに上位に位置するため、この状況はある意味自然なものだと言えます。
かつてはコンプレックスから魔物との争いや親魔物派への迫害が起こっていたらしいのですが、現在ではほぼすべての「人間」はそうした現実をいちいち気にしないようになっているのです。
ある意味、諦めの境地。
そんなピラミッドの頂点から降りて久しい人間種ですが、かといってあっさりと世界から姿を消すようなことはありませんでした。「魔物」にとっても純粋な「人間」が全くいなくなってしまうのは不都合なこともあり、現在では私達「人間」は世界各地に存在する、特定の領域――通称、「クレイドル」の中で暮らしています。規模や人口は各々まちまちですが、小さなものは村から町程度の規模、大きなものではかつての王国首都クラスのものまであるといいます。
私が暮らす「クレイドル」は、それなりの規模を持つ町ひとつがそのまま人間の保護領域になったもので、人口は約一万人ほど。町中には商店街はもちろん、病院や図書館などの公共施設、政治を取り仕切る執政院と、会議の行われる場である議会堂、はたまた娯楽施設や歓楽街といったものまであります。
そうした中に、人間族の子ども達に学問を教え育成する場所、私が通う「学院」も存在しているのです。
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「……失礼しました」
授業の後、職員室に呼び出された私は担任であるラミアの先生からこってりと絞られました。無論、物理的な意味ではなく精神的な責めの意味で。
ちなみにこの学院、生徒はほぼ全員「人間」ですが、教師はその限りではありません。むしろ、大半の先生は「魔物」であり、その種族もサキュバスやラミア、リザードマンにセイレーン、果てはスライム(一体何の科目を教える先生なのでしょうか)と様々です。それはここに限った話ではなく、おそらく世界全体を見ても人間の先生の数は少ないといってよいでしょう。
それにしても長かった。実質のお説教時間は三十分ほどでしたが、体感的には数時間くらいに思えました。さらには掃除当番+反省文の提出という嬉しくないおまけ付き。
職員室内、つまりは生徒にとっての敵地真っ只中で他の多くの先生に見られながらのお説教という行為にはある種の拷問じみたものを感じました。そのうち、あまりにも非人道的だということで条約で禁止されてしまいそうです。というか即刻すべき。
「……ふう」
生徒の人権を軽視するような罰からようやく解放された私は職員室の引き戸を占めると息を吐き出します。
と、同時。背後から声がかかりました。
「おーい。ようやくお勤め終了かー?」
相手は声と同時に私の肩を叩きます。予想外のことだったので思わず声を出しそうになりましたが、職員室前というこんな所で「変なこと」をしてくるような者は流石にいないだろうと考え、のどから出掛かった声を飲み込みました。これ以上、お説教の題材を増やすようなことはしたくありませんし。
それに、冷静になってみるとその声には聞き覚えがありました。ゆっくりと振り返ると、そこには想像通り、私の良く知る一人の男子生徒が立っていました。
「アレスタ。やはりあなたでしたか」
私を見つめるこの少年の名前はアレスタ。彼も私と同じく、この学院の学生、さらに言えばクラスメイトでもっと言えば家が隣の幼馴染という関係。家族を除けば私と一番長い付き合いのある人物です。背丈は私よりわずかに高いくらいですが、見るものに活発そうな印象を与える短めの髪と、輝く大きな瞳が彼を実際の年齢よりも幼く感じさせます。
勉強嫌いの彼には放課後にわざわざ職員室まで来るような用事もないでしょうから、この時間にこんな場所にいる理由というのは、明らかに私を待っていたためなのでしょう。
相手の正体を確認した私は、安堵とわずかな不快感をない交ぜにして言葉を発します。
「いきなり肩をたたくのは止めてください。びっくりします」
「えー? これくらいで驚くなんて、臆病だなあ」
「誰だって不意に身体に触れられたら驚きます」
「いや、そこは気配を察してさ。お前ならそれくらいできるだろう?」
「できませんよ。どんな達人ですか、私は」
「なんだ、出来ないのか……」
「なぜがっかりしますか。というかですね、私だって女の子なんですよ。セクハラですよ、これ」
ちっとも悪びれた様子の無い彼に頬を膨らませますが、まるで効果はありません。まあ、いつものことですから諦めていましたけれど。
「今更どの口がそういうこと言うか。幼馴染同士で、お互いの素っ裸もみた関係だろ?」
「誤解を招くような表現は止めてください。何歳の時の話ですか」
慌てて周囲を見回しますが、幸い放課後の廊下には私達以外の生徒の姿はありませんでした。それにしてもこの人、放っておくと何処で爆弾発言をしているか分かったものではありません。
「はぁ、まあいいです」
彼のことを気にしていると妙に疲れを倍増させられる気がして、私はまたも溜息をついてしまいます。ああ、これでまた一個幸せが逃げるのでしょうか。
「ん〜? どしたー? しょぼくれた顔してー」
こちらの顔を覗き込み尋ねてくる彼に、私は口を尖らせて答えます。
「わかってて聞いてますね? あなたも私が先生に居眠りで怒られたところ、見てたでしょうに。さっきまでヴィアンナ先生のお小言をたっぷり聞かされてましたよ」
「はは、お疲れさん」
「本当に疲れました。ああ、帰ったら反省文を書かないと」
課された罰を考えると、無意識のうちに肩が落ちてしまいます。ラミア(蛇)らしく、あの先生のお説教は長いのです。それでもまあ、基本的には生徒想いのいい先生なのでちょっと怒られたからといって嫌ったりはしませんが。
「はあ、それにしても居眠りをしていたのは私だけじゃなかったはずなのに」
居眠りをしていたことは確かですし、自分に非があるのは分かっていますが。私だけが罰を受けている不条理な現実につい愚痴ってしまいます。
「俺たちは後少しで卒業だからなー。確かに授業の内容も、もうほとんど今までのおさらいというか時間つぶしみたいなものだから、寝てるヤツや話を聞いてないヤツも少なくないよな」
苦笑いを浮かべるアレスタの言葉に、私も頷きます。私もアレスタも学院の中では卒業を間近に控えた最高学級ですから、ここで過ごすのも後わずかです。
「ですよ。何故私だけ……」
「たまたま目が合っちまったんだろうけど、運が無いというか、間が悪かったというか。お前って、いっつもそんな感じなんだよな」
「うう、言わないでください。そんなことは自分でも嫌というほど分かってるんですから……」
彼の言葉に私は力なく呟きを返します。
何もこのようなことは今日が初めてではないのです。自分の過去を振り返ってみれば、クラスの中でたまたま目に付いたというだけで面倒な手伝いに呼ばれたり、出かける予定を立てた休日に限って雨が降ったりと今までおきた例だけでも枚挙に暇がありません。自分のドジばかりが原因というわけではないのですけれど、どうしてか私はいつもいつも貧乏くじを引くような立ち位置になってしまうのです。
「どんまい。ま、そんなことよりさ。帰ろうぜ」
沈み込む私を見かね、アレスタが声をかけます。変に同情する様子もない彼の言葉は、ある意味で救いでした。
私は彼に頷き返し、廊下に置いておいた鞄を手に取ります。
「ええ、そうですね。いつまでも学院に残っていてもやることもありませんし。帰りましょうか」
そしていつものように私は幼馴染の彼と並んで、共に昇降口へと向かうのでした。
・・・・・・・・・・・・
私達の通う学院は「クレイドル」の南西に位置する小高い丘の上にあります。晴れた日の屋上からは辺りを見渡すことも出来、また町の喧騒とも無縁のこの場所は勉学に励むにはなかなかに好条件な立地といえるでしょう。唯一、登校時に長い坂を上らなくてはいけないという点にさえ目を瞑ることができれば。
放課後の校庭には部活動にいそしむ生徒達の姿がありました。元気のいい声が遠くから私達の場所まで響いてきます。この時期には私達と同じ最高学級の生徒は部活動から引退しているはずですから、おそらく彼らは皆私達より年下、下級生でしょう。
運動に打ち込み汗を流す少年少女の一団を眺めつつ、私とアレスタは校庭を横切っていきます。立派な校門をくぐると、両側に植えられた木々にはさまれた坂道がずっと先までのびています。
「やっぱ、購買のパンの中ではハニービーの蜂蜜パンがいいよな。うまいし値段も手ごろだし、大量に仕入れてくれるから売り切れて食いっぱぐれることもないしな」
「何気に甘党ですよね、アレスタ。私はホルスタウロス印のミルクパンかなぁ」
「ええ? あれそんなにいいか〜?」
「もちろん、それだけだと他の惣菜パンや菓子パンに比べて物足りないんですけど。素材がいいので自分で用意したジャムとかに合わせるととっても美味しいんですよ」
「なるほどな〜」
他愛もない会話をしながら、なだらかな丘に敷かれた道を私とアレスタは並んで下っていきます。街路樹が時折吹く風に枝を揺らし立てる音が耳に心地よい響きとなって届きます。いまだ冬の装いをしている木々ですが、枝の先には新芽が芽吹き、つぼみも膨らみ始めています。もう、あと数週間もすれば花も開き、鮮やかな彩を見せてくれるでしょう。
坂には私達以外にも帰宅の途につく生徒達の姿があり、その表情は一様に放課後の解放感に彩られていました。
数分も歩くと坂は終わり、T字路の形で大きな通りとぶつかります。
ここが「クレイドル」の中心通り。様々な店が軒を連ねるこの通りを西に進めば公共機関の立ち並ぶ区域へ行くことが出来、さらにその先には「クレイドル」と外界を隔てる境界門があります。逆に、東側に進むとこの「クレイドル」で暮らす人間達の住む家が立ち並ぶ居住区です。私やアレスタの家もその中にあります。
居住区へと続く商店街には、私達のほかにも学院の制服を着た者達があちらこちらの店へと入って行く姿がありました。別にとりたてて用事もなく家まで急ぐ必要もないため、私達も彼らと同じくあちこちの店のショーウィンドーを眺め、露店をひやかしながらゆっくりと歩きます。
「お。あそこの店、東の国の着物ならべてるな」
「本当。東方の衣装なんて、このあたりでは珍しいですね。ちょっと着てみたい、かも」
見慣れた町並みや店のように思えても、ぷらぷらとあるいていると意外な発見があるものです。町歩きにおいては、その途中でこうしたものをふと見つけるのが楽しいのです。
「あ、後で少し雑貨屋に寄ってもいいですか?」
「構わないぜ。そういえば、ちょうど俺もノートだのなんだのと買う物はあったしな」
いつもの調子で会話をしながら足を進め、本屋に入って雑誌を立ち読みしたり、雑貨屋で並んでいる品物を眺めて(永遠にやってこないであろう)購入の予定を立てたり。時には買い食いをしたり。こういった寄り道は下校時の醍醐味でもあります。
だからというわけではないのですが、途中、ふと目に付いた露店でホットドッグを一つ購入。ついやってしまいました。
本当のところ、私の財布に入っている今月のお小遣いの残りは決して多くはないのです。自分の財政状況は無論、重々承知していたので、節約を心がけていたつもりでした。
が、風に乗って届いたいい匂いの誘惑には勝てなかったのです。私は意志の弱い現代っ子なのです。程よい大きさのアレは、小腹も空いていたので夕飯までのつなぎとしても、丁度よかったですし。
脳内で言い訳を並べつつ、出来立てのホットドッグにかぶりつきます。口の中でジューシーなソーセージが噛み切られ、肉のうまみを野菜のシャキシャキ感が引き立てます。同時にかかったマスタードの程よい辛味が舌を刺激。うん、露店売りにしてはなかなかにいい味。
「あの売り子は、ある意味卑怯だよな」
私と同じく、買ったばかりのホットドッグを頬張るアレスタが呟きます。もぐもぐと口を動かしながら、私もその意見に頷き全面的に賛成の意を示します。
悪徳商法というわけではないのですが、あの店は非常に卑怯だったのです。
「あんな小さなワーウルフの女の子が尻尾をぶんぶん振って、おまけに上目遣いでじっと見つめてくるんだぜ。よほどの冷血漢以外は何か買うよな」
「まったくですね。なまじ狙っているのではなく、素だから勝ち目がありません」
言葉に出しての催促こそしないものの、大きな瞳でこちらを見つめ続けるワーウルフの少女から何も買わずにその場を去れる者などいないのではないでしょうか。子どもは何気に強いのです。やはりずるい。
「ただの売り子とは思えないくらい、可愛い子でしたしね」
「だよな」
可愛らしい顔立ちに、庇護欲をそそる小柄な身体。大きな耳と元気よく振られる尻尾は彼女に似合っていました。シンプルなフリルエプロンというコーディネートも、健気さを感じさせて高ポイントでしたし、あの子目当てのリピーターも増えそうな気がします。もちろん、売り物の料理も美味しかったですしね。
「初めて見る子でしたけど、値段も手ごろでしたし、また来てくれるといいですね」
「そだな。なかなか美味かったしな。ま。毎回買ってたら俺の財布がピンチだけど」
「それは私もですよ。貧乏学生ですから」
そんなおしゃべりをしているうちに、私達は二人ともホットドッグを食べ終えていました。丸めた包装紙を目に付いたゴミ箱に放り込み、先ほどよりは少しゆっくりとしたペースで足を進めます。
ちなみに、基本的には人間の領域である「クレイドル」ですが、それは決して人間だけの世界だという意味ではありません。町の中を少し歩けば、サキュバス種や妖精、獣人や昆虫型の亜人種、人型をしたスライムなど多くの魔物の方の姿を見ることが出来ます。
ただ、学院の先生のような人たちを除いて「クレイドル」の中に魔物の方が住むことは制限されているため、大半は交易に来た商人や旅人などで外界からの来訪者です。実際に居住区に家を持っている人はまれなケースなのです。おそらくあのホットドック屋をやっていたワーウルフの少女もそうした来訪者達の一人なのでしょう。
一部を除いて「クレイドル」の外へと出ることの少ない私達人間にとって、生活に必要なものは自給自足が基本です。が、それでもこの限られた領域の中で手に入れることの出来ない物資や情報は外界との交易に頼らざるを得ません。定期的にやってくるケンタウロスのキャラバン隊やハーピーの新聞屋などは、文字通りこの「クレイドル」で暮らす人々の生活を繋いでいる命綱なのです。
「思うにさ。いっつも『決められた時間はきちんと守りなさい』って言われるけど、それって人間族以外の口からは聞いたこと無いよな」
「そうですね。まあ、今の『人類』の中では私達の寿命は短い方ですからね。時間を大切にしなさいっていうのも分からないでもないですよ」
「長生きして百年ちょっとだもんなあ。何百年も生きられるっていうのは、ちょっと羨ましいよな」
「あら、意外。あなたもそういうこと言うんですね」
「だってさ。人間の何倍も長く遊んでいられるんだぜ?」
「……そういうことですか。やっぱり、アレスタはアレスタですね」
いつも通りのおしゃべりをしながら歩き続けていると、通りに並ぶ店も少なくなり、かわって民家が増えていきます。このまま道をあと数分も歩けば、私の家が見えてくる距離です。
ふと思いついたように、アレスタはこちらに顔を向けると口を開きました。
「もうすぐ卒業といえばさ。お前この間の希望進路調査、なんて書いたんだ?」
「え? 希望進路ですか」
「ああ。提出締め切りぎりぎりまで考えてたんだろ? 結局どうするんだ?」
尋ねる彼の言葉に、私は以前に出した答えをそのまま口にします。
「ええと、いろいろ迷ったんですけど……。第一希望はやっぱり『ここを出て行く』ことにしました」
学院の最高学級生である私達は、もうあと数週間後には学院を卒業します。その後の進路は人によって様々ですが、大きく分けて二つ、「クレイドルに残る」か「外界に出て行く」かになります。
前者の場合は、「クレイドル」の内部での様々な仕事――公共施設や商店などに勤めたり、農業などに従事したりすることになります。家を継ぐべき長男(もちろん長女の場合もあります)は、比較的この道を多く選ぶようです。保守的というなかれ。人間が斜陽の種族であり、保護区として限られた領域の中だけとはいっても、「クレイドル」の中ではそれなりに豊かな暮らしを維持しています。そこでの一生は刺激的な要素こそ少ないものの、穏やかで幸せなものだといえるでしょう。実際に多くの人が生まれてから死ぬまで、この揺りかごの中で時を過ごします。
もう一つの選択肢は、「外界に出る」こと。こちらを選ぶものも、意外と少なくありません。とはいえ、皆が皆「クレイドル」から出て行ってしまっては残された人々の生活が成り立たなくなるばかりか、人間という種族自体が絶滅してしまうので誰も彼もが外の世界に出て行けるわけではありません。
主な方法というか、条件としては、二つ。
一つは「執政院の外務部門など、外界に関わる職に就く」こと。とはいってもこうした特殊な職の募集枠数は非常に少ないので、普通は外界に出ることを望む者が目指す道として選ばれることはまれです。そもそも外界に出ることは仕事の一部なので、最終的には「クレイドル」に戻ってくることになるのが普通ですし、一生を外界で暮らしたいと考える人にはあまりメリットがありません。
そのため、学院卒業後に外界に出ることを望む生徒(特に、女の子の場合)が取る方法は通常、もう一つのものになります。
「ふうん……」
私の答えを聞きながら視線を空に向けた彼が、そのまま言葉を続けます。
「ってことは、『魔物になる』つもりなのか」
「ええ、そうなりますね」
そう。その方法というのが、「魔物になること」。魔物の中には人間の女性を同種の魔物へと変える能力を持ったものがいるのです。良く知られているところではサキュバスやワーウルフ、ローパーなどといった種族が、それに当たります。もちろん、彼女たちは人間を同族にする以外に、通常の方法で子孫を増やすことも出来ます。それでも「自分達の種に新しい血を入れたい」とか様々な理由で「クレイドル」に住む人間の女の子には様々な種族の魔物さんから声がかかるのです。また、いろんな理由から魔物に憧れる女の子も多いので、人間の方からお願いをして魔物に変えてもらう、というケースも珍しくはありません。
「私は次女ですから、魔物になって外に行っても家に迷惑はかけませんしね。お父さんもお母さんも、私の好きなようにしなさいって言ってくれてますし」
「へえ、確かにお前のところだと、お父さんもお母さんもそんな感じのこと言いそうだよな」
我が家の両親のことも良く知るアレスタは、わたしの言葉に頷きます。
「で、魔物になるとして種族は?」
重ねて尋ねるアレスタの質問に、私は腕を組んで唸ります。
「それが悩みどころなんですよね。メジャーな所だとサキュバスかワーウルフなんですけど、一生ものの選択ですから安易に決めたくはないですし。けど、どっちも嫌ってわけではないですよ。サキュバスになると体つきがより魅力的になるっていうのはスタイルを気にする女の子にとっては捨てがたいポイントですし、ワーウルフみたいな獣っ子は王道の魅力がありますしね。あ、でも獣人っていうなら私の歳ならまだぎりぎりラージマウスになるのもいけるかな。あの丸耳にふかふか手足って、狼とかとはまた違ってかわいいんですよね。もしくは方向性を変えて、ヴァンパイアとかもいいですね。ただ弱点が多いのはう〜ん、かも。後は何気にローパーとかスライムも悪くないって気がするんですよね。かなり特殊な姿になりますけど、不定形って他には無い魅力がありますし」
一気にまくし立てた私は、そこまで言ってこちらを見つめるアレスタの視線に気付きました。う、いけない。なんだか生暖かい視線で見られている。
頬を染める私に構わず、アレスタは独り言のように呟きます。
「スライム、ねえ」
彼の言葉に頷き、私は再び口を開きます。
「十分ありですよ。スライムという特性を十分に生かして、相手を全身で包み込んであげたり、とか。お互い全身で相手を感じられるんですよ。お嫁さんがスライムの女の子、お気に召さないです?」
「いや、俺は別に恋人の種族がなんであろうと気にはしないけどな。というかお前とは長い付き合いだから分かってるつもりだったけど……やっぱり結構変わってるよな」
感心とも呆れともつかない表情でこちらを見るアレスタに、私は小首を傾げます。
「そうですか?」
「ああ。そりゃ学院の中でも将来は魔物になりたいっていう女の子は珍しくはないけどさ。そこまであれこれ考えてるのって、お前くらいだろ」
「ですかねえ?」
「ああ。というか、正直言って見た目からは想像できないくらい中身エロいよな、お前」
幼馴染であるがゆえに遠慮というものの全くない言われように、私の顔が熱くなります。
「うっ……。いや、私も薄々『自分ってちょっとエッチかな〜』とかは思ってましたけど」
「ちょっとってレベルじゃないだろ」
「でもでも、女の子だってそういうことに興味はあるんですもん。これくらいは年頃の女の子なら普通ですよ、きっと。うん、ふつうふつう」
「いや、スライムプレイを熱く語れる年頃の女の子なんてそうはいねえよ。なんというか、お前の場合、なまじ見た目がいいだけに実は中身がそれって、最早詐欺だな」
「うぐう」
慌てて反論したものの、ばっさりと切り捨てられ私はうなだれます。しかし「中身詐欺」って。女の子に対する評価としてはあまりにあまりなんじゃないでしょうか。
「それは言い過ぎではないでしょうか。流石の私も切なくなります」
隣を歩くアレスタの顔を見上げ、散々言われたせめてもの抵抗と恨みがましく呟いてやります。が、当然の如く彼に効果を上げることは出来ず、言葉は空しく消えていきました。
「……やっぱり変ですよね。こんなことばかり考えている女の子」
がっくりと肩を落とし自嘲気味に呟いた私に、アレスタが言います。
「ま、いいんじゃないの。そういうとこもお前らしくてさ」
その言葉に私は隣を歩くアレスタへと視線を向けますが、彼は前を向いたままで、いつもと変わらないように見えるその横顔からは先ほどの言葉の真意を推し量ることは出来ませんでした。
不意に、なんだか先ほどとは別種の恥ずかしさに頬が熱くなります。それを誤魔化すように、私は彼へと同じ質問を投げかけることにしました。
「じゃ、じゃあアレスタは? 私に聞いたんだから、そっちの進路も教えてください」
「ん? 俺? 俺か……」
私の言葉にこちらを向いたアレスタは、彼には珍しく即答しませんでした。考えを纏めるように視線を宙にめぐらし、「うーん」などと唸ります。悩みや迷いなんてなさそうだと思っていましたが、やはり一生に関わる選択だけあって、流石の彼もいろいろ考えているようでした。
「そうだなあ。お前ほどきちんと決めてるわけじゃないけど……」
幼馴染の少年の言葉に、私は自然と耳を澄まし、意識を集中します。
ですが、通りに響いた大きな声が、今まさに彼の口から発せられようとしていたその先の言葉を遮りました。
「おーい! そこいくおふたりさ〜ん!」
突然の大音声に私達が驚いて振り返ると、道の向こうには一人の女性が立っていました。すらりと伸びたスタイルのいい体つきと、腰までの長い髪。身にまとうのは落ち着いた色合いの上着とロングスカート。胸元に野菜や果物がのぞく紙袋を抱えた姿は、優しいお姉さんといったところです。私達より二つか三つ年上に見える彼女は人懐っこそうな顔に満面の笑顔が浮かべ、こちらに向けて手をぶんぶんと振っています。
「あら。あのひとは……」
私が彼女の名前を呼ぶよりも早く、女性はこちらに駆けてきます。風のように走る彼女は、あっという間に私達のところまでたどり着きました。長いスカートという走りづらい服装なうえ、荷物を抱えてのあの身のこなしはさすがといわざるを得ません。
目の前にやってきた女性に、私は改めて挨拶します。
「お久しぶりです、ルチエさん」
彼女はルチエさん。私やアレスタとは歳の離れたお姉さんですが、学院の先輩でもあり、私達と家も近かった関係で昔はよく一緒に遊んだものでした。
「ん、久しぶり。元気そうね」
ルチエさんは私とアレスタを交互に見つめ、にっこりと笑います。
「あ、なーんだお二人さんデート〜? 相変わらず仲いいわね〜」
「そんなんじゃないって。ただ一緒に帰ってるだけだよ」
「そーゆーのを世間一般では『放課後デート』と呼ぶのよ。んもう、アレ君たちもすっかりおませさんになっちゃって〜。うりうり」
いたずらっぽく笑うルチエさんのスカートからピンク色をしたひも状の物体が姿を現し、私とアレスタの頬をつつきます。ほのかに暖かく、ぷにぷにとした感触を持つそれはローパーという魔物が持つ器官、触手。
「や、ルチエさんくすぐったいですよぉ」
頬をつつくだけでは飽き足らず、身体に巻きつきだした触手に、私は持ち主へと抗議の声を上げます。
そう、ルチエさんの正体は魔物なのです。元々は私やアレスタと同じく人間でしたが、今は人間の上半身とぶよぶよとした下半身から触手を生やした姿を持つ種族、ローパーなのです。
「町中でこんなことするなよ。魔物が人間を襲ってると勘違いされて怒られるぜ」
散々触手で弄り回された後、ようやく解放されたアレスタが少しばかり不機嫌そうに言います。言葉にこそ出しませんでしたが、私もそれには同感でした。「人間の領域」である「クレイドル」の中では往来で魔物が人間を襲うようなことは(一応)禁じられているのです。
いや、それ以上に――彼女なりのスキンシップと分かっていても――町中で触手にぐるぐる巻きにされるのはちょっと。触手プレイというものに偏見があるわけではないんですが、誰に見られているか分からない場所では、ねえ。
まあ胸をもまれたりとか、スカートの中に突っ込まれたりとか、ローパーの種を植えられないだけましなのかもしれないですけど。
「大体、なんでルチエ姉ちゃんがここにいるんだよ? 今は旦那と一緒に暮らしてるんじゃなかったっけ? 確か、南の方で」
アレスタの言葉に、私も頷きます。魔物になった女性の例に漏れず、ローパーになったルチエさんも学院卒業後、今は旦那さんと「クレイドル」の外で暮らしていたはずです。そして魔物になって「クレイドル」を出て行った人は、ほとんどの場合「クレイドル」に戻ってくることなく一生を過ごすのです。
疑問の表情を浮かべる私達に、ルチエさんが答えます。
「ああ、ほら。もうすぐ『学院』の卒業の季節でしょ? なんでも今回卒業する生徒の中に、ローパーになりたいっていう子がいるらしくて。それで『ローパーの種』を頼まれたのよ。で、ついでだから里帰りも兼ねて私がやってきたって訳」
「なるほど。しかしこうしてみると結構いるのな、魔物志望者」
納得の表情を浮かべるアレスタの言葉に頷き、私は言います。
「ですよ。男子が知らないだけで、私達のクラスだと魔物になることを志望してる子、意外と多数派ですよ。まあ、私が言えた義理じゃないけど、考えは人それぞれですからね」
「へえ、あなたは魔物化志望なのね。そういえば小さな頃から『おっきくなったら魔物の女の子になりたい〜』って言ってたしね」
私の言葉にルチエさんが片眉を挙げ、口を挟んできました。うねる触手でつんつんと肩をたたき、尋ねます。
「何になるかまで決めてるの?」
「いえ、そこは現在検討中です」
「ふーむ。まあ、『魔物』って一口に行ってもいろいろだし、悩みどころよね」
先ほどのアレスタと同じ、ルチエさんの問いに素直に答えると彼女は腕を組みます。
「じゃあローパーオススメしちゃおうかな。いろいろ便利よこの身体。何ならほら、出来立てほやほやの種上げるわよ?」
彼女はスカートの中から取り出した卵大の種を手のひらに乗せ、私に見せます。わずかに濡れたピンク色の楕円形をしたこの物体が、人間をローパーに変える種。これを体内に入れれば、やがて発芽し身体を目の前のルチエさんと同じくローパーのものに作り変えてくれるでしょう。
とはいえ、流石にその場の勢いで決めるわけには行かないので、ルチエさんの申し出と彼女が取り出した種は丁重にお断りすることにします。
「あ、いえ……。申し訳ないですけど、まだちょっと考えようと思うので……」
「そっか。ちょっと残念」
最初からそこまで本気ではなかったらしく、彼女は私の言葉にも気を悪くした様子はなく、種を自分のポケットに滑り込ませます、
「もしローパーになりたくなったらいつでも言ってね。お姉さんが手取り足取り教えてあげるから」
「はぁ……。そうなった時はよろしくお願いします」
ウィンクするルチエさんに、私はとりあえずそう返します。彼女はうんうんと頷き、隣のアレスタのほうに顔を向けると、言葉を続けます。
「アレ君もね。もうすぐ卒業なんだから、いつまでも遊んでいないで将来のこともちゃんと考えないとダメだぞ」
「わかってるよ」
ルチエさんのお姉さんぶった物言いに多少、不機嫌そうに眉をしかめたものの、アレスタも素直に頷きます。
「ん、よろしい。それじゃお姉さんはおうちに帰るから。二人とも仲良くね」
最後に触手で私達の頭を撫でると、ルチエさんは軽やかな足取りで歩み去ります。道の向こうに消えていくルチエさんの背を見送り、アレスタは溜息と共に漏らしました。
「相変わらずだよなあ、あの性格」
「そうですね。でも元気そうで何よりです」
「まあそうだな。さて、暗くなってきたし、俺たちもさっさと帰ろうぜ」
「ええ」
彼の言葉の通り、いつのまにか日はほとんど沈み、辺りには薄闇がかかりだしていました。灯り始めた家々の明かりを視界の端に見つつ、私達も後わずかの距離となった家まで、帰宅の途につくのでした。
・・・・・・・・・・・・
夜。自宅二階の自室のベッドに横たわった私は、ぼんやりと天井を見つめたまま何をするでもなく過ごしていました。机の上には様々な魔物についての説明が書かれた本が開いたままになっており、ランプの明かりにそのシルエットを浮かび上がらせています。
「どんな魔物になるのかも、もう決めないといけないんですけどね〜」
ベッドの上でごろごろと転がりつつ、私は独り言を呟きます。しかしながら本に記された魔物さんの姿と説明はどれも魅力的で、すぐには決められそうもありませんでした。
「そういえばアレスタはどうするんでしょうね」
ルチエさんの登場ですっかり忘れていましたが、アレスタの進路は結局聞けずじまいでした。彼は一人っ子ですから、学院を卒業してもこのまま「クレイドル」に残るのでしょうか。それとも、私と同じように外の世界に出て行くのでしょうか。
「想像できない……。あの子、あんまりそういうこと言わないですからね」
男の子は女の子のように魔物になることは出来ませんが、魔物のお婿さんとして町を出て行くことがあります。基本的に女性しかいない魔物にとって男性のパートナーというのは非常に貴重な存在で、誰もが望んでいるものなのです。そのためあちこちで男の子の争奪戦は静かに、しかし水面下では激しく行われていたりするのです。学院のクラスメイトとの会話の中でも、どんな魔物になりたいかと同じくらい、誰と誰が付き合ってるだの、自分はどんな男の人と結婚したいかだのという話題は何度も語られてきました。女の子は何気ない風を装ってお互いの腹のうちを探り合っていたりするものなのです。
「いっそ、聞いてみましょうか」
首をめぐらせば、窓の外に隣の家の様子が見えました。カーテンこそ引かれているものの、部屋の明かりが点いていることから察するに、彼はまだ起きているのでしょう。
流石に窓越しに行き来できる距離ではないですが、声なら十分届くはず。のそりと起き上がって窓へと向かい、そっと戸を開きます。
初春の夜の風は想像以上に冷たく、私は思わず首をすくめました。アレスタがこちらに気付いた様子はなく、正面に見える明かりのついた窓は変わらない姿を見せています。もうすっかり遅い時間なので大きな声は出せませんが、これくらいの距離なら普段の声の大きさでも問題なく届くでしょう。
「……」
窓に向かって口を開きかけ、しかしやっぱり止めます。なんだか不意に、彼の答えを聞くのが怖くなってしまったのです。
私が魔物になってここを出て行こうとする以上、彼が「クレイドル」に残るのであれば離れ離れになってしまいます。それに彼もまたここを出て行くとしても、私とずっと一緒にいるという保証はどこにもありません。もしかしたら、誰か他の人と一緒になって、私とは別の道を歩むことになるかもしれないのです。
「……っ」
その光景を想像した途端、私の胸がちくりと痛みました。そういえば小さな頃から「魔物」という存在になることを憧れてはいたものの、パートナーとして一緒になる人のことはあまり考えてきませんでした。クラスメイトの女の子達はやれ「だれそれが好きだ」とか、「彼氏は○○が好きだから○○っていう魔物になりたい」とか言ってましたが、私は魔物になることばかり考えていてそっち方面についてはさっぱりでした。
「パートナー……旦那さん、ですか」
そう呟いても、悲しいかな男の人とのお付き合いをしたことなどない私にはさっぱりイメージが湧きませんでした。なんだか情けなくなって、私はベッドに倒れこみます。
「なんて空しい青春」
枕に頭をうずめ、ぼそりと自虐の台詞をはきます。瞳を閉じた瞬間、ぼんやりと瞼の裏に浮かんだ隣の幼馴染の顔はどういうことなのかと考えを纏めることも出来ないうちに、いつの間にか私の意識は眠りへと落ちていきました。
・・・・・・・・・・・・
「あたしね、マタンゴになるんだって! そしたら彼と一日中……」
「それ、今とあんまり変わらないんじゃない?」
「この間、ヴァンパイアになるために血を吸ってもらったんだけど……もう影響出てるのよね。晴れの日に外に出るとどどっと疲れるのは参っちゃったわ」
「いいじゃないそれくらい。私なんてマミーだから。包帯のうえに制服着るとごわごわして気持ち悪いわ。けど包帯巻かないと肌が服と擦れただけで動けなくなっちゃうし」
「俺がうちの店継ぐことになったからって、最近親父がこき使うんだよなあ。おかげでちっとも遊べやしねえ。お前は結局どうすんだ?」
「はは、わりぃな。俺は卒業式後にそのまま結婚式だぜ」
「あっ、そうかてめえ、たまにやって来るアヌビスの子とこっそり付き合ってたんだっけか!? くっそ、この逆玉ヤローがぁ〜」
「ははは、ひがむなひがむな。お前にもそのうちいい子を紹介してやるって」
「くそぅ。その上から目線がムカつく」
卒業の日まであとわずか。私達、学院の最高学級のクラスでは毎日毎日それぞれの将来についての話題でもちきりです。
ちなみに学院には一応「卒業式」というものはありますが、出席は義務ではありません。加えて既に私達が修めるべきカリキュラム自体はすべて終了しているため、気の早い何人かの者は手続きを終えて「クレイドル」を出ていたりもします。私の友人の一人も、先日最後の挨拶に来たあとワーウルフのお姉さんと一緒にここを出て行きました。彼女は既にパートナーがいるそうなので、きっと今頃はあのワーウルフさんに同族にしてもらって新しい旦那さんと新婚ほやほやな生活をしていることでしょう。
で、私は悩みに悩んだ末、結局「ダークスライム」になることにしました。スライムと馬鹿にすることなかれ。変幻自在なボディは多種多様な用途に使える汎用性を持ち、さらに実は強力な魔力を持つという高位の魔物なのです。最後までローパーと迷ったのですが、あまりダークスライムになったという人の話を聞かないことが独自性を求める私の心を刺激したのでした。
こういうところも、アレスタ曰く「変わってる」という評価に繋がっているのかもしれません。
「とはいえ、なんだかすっきりしないんですよね」
机に突っ伏し、私は独り言を漏らします。進路をようやく決め、それに文句も悔いもありませんが――なにかが心に引っかかっているような気がするのです。
そういえば件のアレスタの進路はどうするのか、結局今の今まで聞けずにいました。タイミングを逃した今となっては聞きづらいですし、やっぱり答えを聞くのが少し怖いことも否定できません。その話題が出たあの日からそのまま、今日までずるずると来てしまっていたのです。
「……ちょっといいか?」
すぐ側で響いた声に顔を上げると、いつの間にかアレスタが机の前に立っていました。いつになく真剣な表情に見つめられ、図らずも私の心臓が鼓動を加速させたような気がします。そんな内心を隠すように、私はいつも通りを装い声を返します。
「別に構わないですけど……どうかしました?」
私の言葉にアレスタはきょろきょろと辺りを見回し、「ここじゃちょっと」と言って目線で廊下を指し示します。彼には珍しく、他の人に聞かれたくない話のようです。
「いいですよ。特にやることもないですしね」
「悪いな」
私の言葉にアレスタはわずかに安堵のような表情を見せ、歩き出します。アレスタに続いて、私も教室を出、そのまま廊下を歩く彼の背についていきます。休み時間のせいもあってあちこちに生徒の姿がある廊下を通り抜け、階段を下り、開いた扉から校舎の外へ。
無言で歩く彼に、私も言葉をかけることなく黙って歩きます。
数分ほど歩き、建物と建物の間にある隙間のような通路を抜けて人気の少ない校舎裏までやってきたところで、ようやくアレスタは足を止めました。
「ここ?」
「ん、ああ。まあ、この場所に意味があるって訳じゃないんだけど。人が来ない場所ってあんまりないからさ」
私に向き直り、彼はわずかにためらった後口を開きます。
「ええっと……前も聞いたけど、お前、卒業したらここを出て行くんだよな?」
「え、あ、はい。一応そうなりますね。卒業式が終わったらダークスライムになって、しばらくそのダークスライムさんにいろいろ教えてもらいながら暮らすつもりです。それから先は正直まだ決まってませんけど」
既に彼には話したはずですが、一応もう一度説明します。それを聞いたアレスタは「そうか」と呟き、何かを考えるように目を瞑りました。
「あの、アレスタ?」
こんな所までわざわざつれてきた理由がそれを聞くだけだったのでしょうか。いまいち彼の考えが分からず、私は小首を傾げつつ目の前の幼馴染に声をかけます。
「よし、決めた」
しかし私が真意を問おうとするよりも早くアレスタは瞳を開け、顔を上げました。真っ直ぐに顔を見つめられ、思わず私は開きかけた口をつぐみます。
「いろいろ考えて、悩んだんだけどさ。俺、卒業したらお前についていくよ」
「え? って……それじゃ」
「ああ、俺もここを出る。で、だ。お前がよかったら、なんだけど……その、い、一緒に暮らさないか?」
瞬間、恥ずかしそうに頬をかきながら言う彼の言葉の意味が良く分かりませんでした。一緒って。それって、つまり。
「結婚……プロポーズ?」
全く現実感のない言葉が自分の口から漏れます。それにアレスタは頬を真っ赤に染めると、こくりと頷きました。
「え? いきなり? っていうか、何で私を?」
私は滅茶苦茶混乱していたのでしょう。イエスともノーとも言うより早く、その疑問が口をついて出てきていました。
「いや……正直いって俺も良く分からない。でも、この間お前が卒業したらここを出て行く、って言ってたのを聞いてさ。今までひやかされても茶化されてもいつも一緒にいた人がいなくなっちまうって考えたらさ……なんかな」
「……」
私の問いに、アレスタはわずかな苦笑を浮かべて答えます。その答えは自分でもきちんとした言葉にはできなかったのでしょう。それでも、私には幼馴染のこの少年が言わんとすることは十分分かりました。そして同時に、寂しそうな表情をうかべるアレスタを見て私は彼が自分と全く同じことを考えていたことをようやく悟ったのです。
いつも一緒にいたからこそ、気付かなかったこと。幼馴染という言葉で誤魔化していましたけれど、私にとって彼は最早なくてはならない存在になっていたのでした。
「で、答えはどうなんだ?」
自分ひとりで納得していると、アレスタが声をかけてきました。どうやら私からの返事がないことに不安になったらしく、いつも元気なその瞳は気弱に揺らいでいます。
「え、言わなきゃダメですか」
「当たり前だろ。言ってくれなきゃわかんねえよ」
私としては何というか、その場の雰囲気から察して欲しかったのですが。ほら、好きとか何とか言うのって、やっぱり恥ずかしいんですよ。
などと内心で思っては見ましたが、やっぱり相手にだけ言わせるのはフェアじゃないですね。アレスタもこっちをじいっと見てますし、答えを言うまでこの場から逃がしてくれそうにありません。
たっぷり一分ほど「あー」だの「うー」だのと唸って時間を無駄にしたあと、とうとう観念した私は熟れたリンゴのように真っ赤になった顔で、答えを口にします。
「そ、その……。こちらこそ、喜んで。こんな変わり者な女の子ですが、よろしくお願いします」
ようやくそれだけをいうと、私は我慢できなくなって目の前の少年から顔を逸らします。心臓はうるさいくらいに拍動し、耳が燃えるように熱いです。たったこれだけをいうのにいままでで一番なくらい緊張しました。そのうえ、言った後はいままでで一番なくらい恥ずかしいときたものです。人は羞恥で死ねる気がしました。
「……そっか、よかった」
すぐ側で安堵の吐息が漏れる気配。どうやら緊張しまくっていたのはアレスタも同じようです。これで晴れて私達の関係性は「幼馴染」から「恋人同士(いや、婚約者?)になったわけです。
「そ、それじゃあ私は行きますね」
なんとなくこの場に留まるのが恥ずかしく、私はそう言うと踵を返して教室に戻ろうとします。これ以上彼の顔を見ていたら、熱を出して倒れてしまいそうなのです。
「あ、ちょっとまって」
呼び止められ、振り返った瞬間。すぐ側まで近寄っていたアレスタの顔が視界いっぱいに映り、同時に唇に何かが触れる感触。
「……!?」
正直何をされたのか、全く理解できませんでした。おそらく目を白黒させているであろう私にアレスタがいたずらっぽく、けれど恥ずかしそうに微笑みます。
「まあ、記念ということで。じゃ、俺は教室に戻るからな」
硬直した私にそれだけをいい、彼は校舎の向こうに消えていきます。その姿が見えなくなってからたっぷり一分ほど経って、私はその場にへなへなとへたり込みました。
「や、やられた……」
悔しさか、恥ずかしさか、それとも嬉しさか。自分でも判別できない感情を含んだ言葉が誰もいない校舎裏に響き渡ったのでした。
・・・・・・・・・・・・
妙ちきりんな告白によって恋人同士になったとはいえ、私とアレスタの付き合いというのは特に大きく変わりはしませんでした。一緒に学院に行き、一緒に学院での時間をすごし、一緒に帰る。変わったことといえば、一緒にいる時間が少しだけ増えて、時々手を繋いだり、キスをしたりくらいです。
そんな日々を過ごしているうちに、あっという間に卒業を迎え、私達は十年近く慣れ親しんだ学院を巣立つことになりました。先日の卒業式後、私達のクラスでは担任のラミア、ヴィアンナ先生に生徒一人一人が卒業証書を受け取ると同時に抱きしめられ、その後も名残惜しむように夕方近くまで教室に残り思い出話に花を咲かせていました。
それも数日前のこと。
「おーい。そろそろ行かないとまずいんじゃないのか」
「あ、はい。今行きますー」
控え室の入り口から顔を出したアレスタの声に答え、私は椅子から立ち上がります。私達がいるのは学院の特別棟、その一室。
廊下に出、控え室の外にいたアレスタと共に隣の教室に向かいます。普段はあまり使われない場所で、私も学院生時代に一度か二度しか使った記憶がないですが、今日はここに用事があるのです。
というのも、何を隠そう今日は私がダークスライムになる日なのです。クラスメイトの中には卒業式前に魔物になるための準備を終えている子もいましたが(例えば、卒業後に丁度変化するように、前もってサキュバスの魔力を注ぎ込んでおいて貰ったり、とか)、私の場合はそうもいかないので卒業後の今日までその日が延びていたのです。
儀式の間としてあてがわれた教室の前に立った私に、アレスタが声をかけます。
「んじゃ、俺は外で待ってるから。この台詞が状況にあってるのかどうかはよくわからないけど、とにかくがんばれよ」
「はい。じゃあ行ってきますね。魔物になった後の私を見て『やっぱり結婚は無し』とか言わないでくださいね。泣きますから」
そう返すと、アレスタは呆れ顔で私の背を叩きました。
「言うかよ。ほらほら、アホな心配してないでさっさといってこい」
その言葉に押されて、私はドアノブをつかみます。最後にちらりとアレスタの顔を見、わたしは開いたドアの向こうに踏み出しました。
「失礼しまーす」
そっと声を響かせ、室内に足を踏み入れます。後ろでドアが閉まると、まるでここが外界から切り離されたような錯覚を受けました。
「あの〜……」
部屋の中はカーテンが閉め切られているのか、真っ暗です。本能的な不安がじりじりとにじり寄ってきます。
何か明かりは、と手探りで壁を調べる私に、不意に今まで聞いたことのない女の人の声がかかりました。
「あ、ごめんなさい。真っ暗で見えないよね。待ってね、いま明かりつけるから」
その声と共に、壁に据え付けられていたランプに灯が灯りました。橙色の光にぼんやりと映し出された室内は想像よりも広く、床には不思議な紋様が描かれています。
そして声の主は、その紋様の丁度真ん中に佇んでいました。
「いらっしゃい。あなたがダークスライム志望の子かな?」
やさしげでありながら、どこか妖しい響きを含んだ声。その主は一糸纏わぬ女性の姿をした、スライムさんでした。大きな胸とくびれた腰、そして幼さをわずかに感じさせつつも妖艶な印象の顔立ちは、男の人を篭絡するのに十分な魅力を備えています。
しかしもっとも強い印象を与えるのは、彼女の濃紫色の体色とどろどろと溶け流れるようなその身体。まるで意思を持つ溶岩のように、その表面がうねり、彼女の足元の水溜りのように見える部分からはローパーの触手にも似た細いスライムが伸び上がります。
「いきなり私の姿を見たら、びっくりすると思ったから暗くしておいたんだけど。どっちにしろ見なきゃいけないんだし、あんまり意味無かったみたいね」
てへへ、と頭をかくダークスライムさんは見た目の異形さに反して、いい人そうでした。よかった。魔物に変えてくれる役目を担うのがこの人なら安心できそうです。なんだかんだ言いつつ、魔物化という今まで経験したことのない出来事に、心のどこかでは少し不安があったのでした。
「え、えっと。よろしくお願いします」
いつまでもぼうっとしているわけにもいかないので、緊張が幾分ほぐれた私は彼女にぺこりと頭を下げます。ダークスライムさんは私に微笑み、口を開きました。
「ん。そんなに緊張しなくて大丈夫よ。ところで人間の女の子をどうやってダークスライムにするのか、その方法は知ってる?」
「あ、はい。少しなら」
自分がなろうとする種族のことですから、それくらいは私も事前に調べてありました。大体において、人間が魔物に変わるメカニズムとしては、「魔力」という生命エネルギーを注ぎ込まれ、人間の生命エネルギーである「精」が失われることで肉体が変異することを基本とします。
ちなみに魔力とか精とかを説明しだすと長くなるので今回は置いておきます。とりあえずは魔物化の方法や変化の仕方は魔物の種類や個人個人によって千差万別、くらいを覚えておけばいいでしょう。
「ふんふん。じゃ、わざわざ説明する必要はないかな。外で彼氏君も待ってるみたいだし、さくっとはじめましょうか」
私の答えに頷き、ダークスライムさんはスライムの触手をくねらせます。
「は、はい」
「そんなに硬くならなくても大丈夫。とっても気持ちよくしてあげるからね」
ダークスライムさんは私を安心させるように笑みを浮かべ、ゆっくりと近づくとそっと抱きついてきました。足下にスライムだまりが触れ、同時に彼女の腕と長い髪のように見えるスライムの触手(?)が私の身体に巻きつきます。
「ひゃう」
ひんやりと湿ったゼリーが肌に触れるような感覚に、思わず口から声が漏れてしまいました。彼女はくすくすと笑い、さらに身体を密着させてきます。いつのまにか足下からは粘液が這い上がり、既にひざの上までを覆っていました。
「どう? これだけでも気持ちいいでしょ?」
耳元で囁くスライムさんに、私はこくりと頷きます。その反応に気分を良くしたらしい彼女は妖しい微笑を浮かべたまま、私の服を脱がせ始めました。
上着のボタンが外され、続いて中に来ていたシャツも剥ぎ取られます。腰まで覆っていたスライムがホックを外すと、スカートはそのまますとんと地面に落ちました。
残ったブラジャーとパンツもあっさりと剥ぎ取られ、生まれたままの姿になった私をダークスライムさんは全身を使って包み込みます。けれども、水の中と違って、まるで息苦しくはありませんでした。頭のてっぺんからつま先までを包み込まれ、私の足が地を離れます。視界にはクリアパープルのベールがかかり、その向こうで揺らめく蝋燭の炎が私から現実感を奪っていきます。
スライムに包まれたまま空中に浮かんだような状態で、耳元に声が聞こえました。
「ふふ……ここからが本番だよ……」
その言葉と共に、私を包み込んだスライムがマッサージをするように私の肌に刺激を与え始めました。全身をたゆたう波に包まれているような奇妙な感覚。同時に肌に触れるスライムからは、なにかが私の中に浸み込み、むずがゆいような、でもどこか安堵するような感触を生み出していきます。
「んっ……ふ、あ……」
抵抗しようにも、スライムに取り込まれた私は指一本動かすことは出来ません。私に許されたことといえば、スライムのプールの中で声にならない声をあげるくらいでした。
「気持ちいい? うふふ。もっと、もっと気持ちよくなるよ……」
嬌声を漏らし、身もだえする私にダークスライムさんは囁き、更なる快感を与えようとその身体が蠢きます。
「え……? あっ、やぁ……いゃぁん……」
何をしようというのか尋ねるよりも早く、私は自身の身体をもってそれを理解することができました。胸やお尻、そしてあそこの周りのスライムが先ほどとは異なる動きをはじめたのです。絶妙なリズムと強弱によって刺激を与えてくるスライムは、まるでたくさんの人の手で全身を愛撫されているかのような強烈な快感を生み出しました。
さらには、私を包み込むスライムが嬌声を上げる口や、秘所から体内へと侵入し始めました。口から入り込んだものは喉を通り、おなかの中まで進んで行きます。そして秘所を侵したもののもさらに奥へ奥へと肉壁を擦りながら進み、子宮の奥まで膣内を犯していきます。ぐにぐにとスライムが蠢く様子と感覚はダイレクトに快感へと変換され、私の思考を蕩かせていきました。
「ふぁぁっ、あ、ああっ……あん……んぁ、ああぁん」
その快感が脳を焼くたびに、私の体はスライムの中で震えました。理性がどろどろに溶かされ、肌からは何かが身体に浸み込んで、人間とは別のものへと私のことを作り変えていきます。
「ん、ん……っ、あ、あん……」
あまりの快楽に、もうまともにものを考えることさえ出来なくなった私は、ダークスライムさんから与えられる刺激に反応して身を震わせ、嬌声を上げるだけの存在になっていました。
「ふふ、かわいい……もっと溶かしてあげる。ほら、くちゅくちゅって音、聞こえるでしょ? あなたの体も、心もどんどんどろどろになっていっちゃうよ」
耳に聞こえる音ではなく、直接頭の中に響くような声が私に伝わります。ですが、既に身も心も蕩けきった私にはその意味を理解するだけの理性は残されていませんでした。
「あは……もっと、もっとぉ……」
壊れたような笑いを上げ、私はダークスライムさんにもっともっととねだります。
人外の快楽のせいで、快感以外の感覚を吹き飛ばされてしまったのか、私には自分の身体を確かめることすら出来なくなっていました。ぐちゅり、ぐちゅりと身体が溶かされる音も本当に鳴っているのか、それとも私にだけ聞こえる幻聴なのか定かではありません。
彼女に身体の外と中から犯され、私の意識は静寂の大海に落とされた水滴が作る波紋のように広がり、薄れていきます。時間の感覚も、場所の感覚も、自分の身体の感覚さえなくなり、永遠の時をこの気持ちよさに包まれて過ごすような、そんなイメージが浮かんできました。
「うふふ……もうすっかり溶けちゃったね。それじゃ、最後の仕上げ」
その言葉が私に響いたと同時、まるで私の身体を押し固めるかのような圧力が全身を包みました。しかし既に完全に蕩けきった心と身体にはそれも苦痛ではなく、自分の身体が縮んでいく感覚さえも快感となって私に声にならない声を上げさせます。
やがてその圧力も消え、全身を熱していた快楽も余韻を残して静かに、穏やかに引いていきます。体力も精神力も限界まで使い果たした私は、まどろむように意識が闇へと沈んでいきます。
「お疲れさま。後はどうすればいいかは、もう分かるよね。それじゃ、彼氏君と末永くお幸せにね……」
すぐ近くでダークスライムさんが微笑む気配。労をねぎらうようにかけられた言葉と、何かが地面に落ちることりという小さな音を遠くに聞きながら、私は最後の意識を手放していきました。
・・・・・・・・・・・・
「おーい……おーい……」
誰かの声が、遠くから聞こえます。
「おーいってば」
どこかで聞いた声。なつかしいような、安心するような。
「起きろー。起きろー」
声の主は聞くところ、男の子のようです。どうやら私のことを起こしたいみたいですが、残念ながら異様なだるさが全身を包んでおり、起きる気力は欠片もありません。床が固いのが難ですが、布団を引っ張ってくるのも面倒です。このままずっとごろごろしていたい気分。
「生きてるんだろー? おーい返事しろー」
返事をしない私に業を煮やしたのか、彼は私の身体をつつき始めました。ぷにぷにと頬を弄られるのはむずがゆいのですが、ここで起きたら負けな気がして私はタヌキ寝入りを決め込みます。
「む……。この程度じゃ効かないか? ならば」
彼はさらには肩に手を置き、がしがしと遠慮なく揺さぶりだしました。どうやら意地でも起こしたいようですが、そういうことをされると起きたくなくなるのが人のサガ。
「へんじがない。ただの粘液生物のようだ」
私が反応を全く示さないことに呆れたのか、諦めの吐息と共に彼はそう言い放ちます。やった、勝った。傍から見れば激しくしょうもない勝利の雄たけびを内心で上げ、私は惰眠を貪ることを続けます。
横たわる私から、少年が離れる気配。
「仕方がない。ただの粘液だまりに用はないから、結婚の約束は破棄して新しい出会いを見つけに行くとするか」
「なんですと」
聞き捨てならない台詞が聴覚に届き、私はばっと目を開けると歩み去ろうとしていた少年の足をつかみます。そのまま勢いよく身体を起こし、わずかに驚いた表情を浮かべる少年につかみかかると一気にまくし立てます。
「ちょっと待ってください。新婚初夜もまだなのに三行半ってあんまりじゃないですか。そもそも私が魔物になってもずっと一緒にいてくれるって言ったのはそっちじゃないですか。これは悪質な詐欺です。訴えますよ。というかアヌビスさんあたりに裁いてもらいますよ」
「あーうるさい……。そんな涙目になって必死になるくらいならさっさと起きればいいじゃないか。寝たふりなんかするそっちが悪い」
至近距離で叫ばれ、眉をしかめた少年――アレスタは私から顔を逸らし、ぼそりと呟きます。
と、いうか。
「ん? アレスタ?」
目の前にある顔をまじまじと覗き込み、私の幼馴染にして恋人にして婚約者な少年であることを確かめます。うん、間違いなく彼はアレスタその人でした。しかしなぜアレスタがここに。
「ようやくお目覚めか、このねぼすけ。……ってその顔じゃあまだ寝ぼけてる感じだな。お前、魔物になって脳みそゆるくなったんじゃないのか」
相変わらずひどいことを容赦なく言う幼馴染の台詞で、私の意識は完全に現実に引き戻されました。とりあえずあやふやになっていた記憶を整理します。ええとまずここはどこで、今はいつでしょう。
「ここは学院の特別棟、魔物化の儀式用に使われてた教室で、時刻はもう夕方。ついでにいうとお前はその魔物化のためにここにやってきていて、俺は付き添い。さっきダークスライムの人が『終わったわよー』って俺のこと呼んだからここに入ってきたわけ。うん、確かにどこからどう見てもすっかり魔物になってるな」
「え、魔物?」
言葉に理解が追いつくより先にばしばし説明されたためか、その説明は私にはまるで現実感がありません。冗談だ、と言われればこやつめハハハと笑ってそっちの方を信じてしまいそうです。
「まだ状況が飲み込めてないって顔だな。ほれ、そっちの壁。鏡がかけてあるからまずは自分の格好見てきたら?」
「は、はあ……」
いわれるがまま移動し、壁にかけられている大きな鏡に自分の姿を映します。そこにはいつも見慣れた自分の身体が……
「はえ?」
ありませんでした。
すっぽんぽんなのも大問題ですが、それはこの際置いておくとして。まず第一に目を引いたのは身体(肌)の色です。胴体、腕など部分部分のシルエットや顔立ちこそ以前の私のものでしたが、全身の肌の色は人間のそれとは違い、透けつつも濃い紫色になっていました。
さらにはそれだけでなく一糸纏わぬ肌の表面はぬらぬらと蠢き、まるで粘性の高い液体が私の身体を作っているようです。髪をはじめ、体のあちこちからは糸を引いた雫が垂れ、足下に落ちていきます。視線を下半身に向ければ、ひざ立ちになった足の下には液体が沼のようにたまり、その表面に歪んだ波紋を作り出していました。
加えて(嬉しいことに)ちょっと大きくなったような気がする胸の真ん中には、赤紫色をした手のひらサイズの球状の物体がありました。これがダークスライムになった私の核だと、知識というよりも本能でなんとなく分かります。
くるりと回って背中側も鏡に映し、もう一度正面から姿の変わった自分の身体を見つめて、私は口元に指を一本当て、頷きます。
「あ、あ〜……そっか。私、ちゃんとダークスライムになったんですね」
異形の姿と化した我が身を見て私が感じたのは、悲嘆でも驚愕でもなく、納得でした。足下のスライムプールから立ち上がる触手をうねらせ、自分の意思が全身にきちんと伝わっているのを確かめると私はアレスタに向き直ります。
「えー、あー、うん。大丈夫です。思い出しました。ご心配おかけしました」
「……そりゃよかった。床でどろどろに蕩けて、だらしない笑みを浮かべ寝言を呟くスライムのお前を見たときは、正直どうしたものかと思ったからな」
「うっ……私、そんなことしてましたか」
呆れ声のアレスタの言葉に、頬が赤く染まった気がしました。スライムになっても恥ずかしいものは恥ずかしいのです。ついでに、認知していなかった自分の醜態を他者から明らかにされると言うことは、想像以上に恥ずかしいものだというどうしようもない真実を私は悟りました。
「まあ何はともあれ。魔物化も無事にすんだようでよかったよ」
うなだれる私から視線を外し、アレスタはぼそりと漏らします。照れの混じったその響きの中に、私は彼の安堵の吐息を感じました。
「そっか……」
アレスタに聞こえないように小さく呟き、私は胸の核をそっと撫でます。私の感情にあわせて、硬質なクリスタルのようなそれがとくんとなったような気がしました。きっとそれは本当に胸がなったためだったのでしょう。だって、彼が私のことを案じてくれていたことを知った私は無性に嬉しくなったんですもの。
そういえば、魔物になるために学院に行くといった私に彼がわざわざ付き添ってくれたのも、私以上に私の身を案じて、不安を感じていたからだったのかもしれません。
「ありがとうございます、アレスタ」
この優しい少年に少しでも恩返しがしたくて、言葉と共に私は彼を抱きしめます。アレスタは突然抱きつかれたことに一瞬驚きの表情を見せたものの、すぐにその意味を察したようで恥ずかしそうに頬を染めはしたものの身を離すような素振りは見せず、両腕をそっと背に回してくれました。
腕の中にアレスタを感じ、私の心を温かいものが満たします。ですが、欲張りな私はそれだけでは満足できませんでした。もっと彼を感じたいと思い、彼へと顔をそっと近づけて行きます。
「んっ……」
いつぞやの告白の時とは違い、今度は私から唇を合わせます。抱き合った時からこうなることはアレスタも予想していたのでしょう。驚いた様子もなく、やさしく唇を触れ合わせてきてくれました。
「ちゅ……、ん……ぁ……あふ……」
彼が応えてくれたことに幸せを感じながら、私は舌を伸ばし、彼と絡め合います。スライムとなった私は、自分の意思でその姿かたちを自由に変えることができます。舌もその例に漏れず、彼ともっと触れ合おうと自由自在に形を変えて口内を隅々まで舐め、味わいます。
「んん……っ」
人間とでは決して経験することの出来ないキス。その強烈な感覚は私達を虜にするに十分なものでした。私とアレスタは刹那の時すら惜しむように、ひたすらお互いを貪ります。
ひとしきりキスを堪能した私達は、名残を惜しみつつも口を離しました。どれほどの時間、唇を触れ合わせていたのでしょうか。私達のキスはほんの短い時間のようにも、数時間も経ったようにも思えました。
彼の口元から垂れる唾液を指で拭い、ぺろりと舐めます。もちろんこれで終わりではありません。
「ね……」
「……うん」
意味の無いような、短い言葉。しかし私達にはそれだけで十分でした。
見つめあった視線だけでお互いが何を望んでいるかを察し、私はスライムとなった全身で彼の身体を包み込み、ゆっくりと押し倒していきます。アレスタの身体の下に自分の一部をマットのように薄く敷き、その上に彼を横たえます。私のなすがままになっている彼は、なんだか子どものようにも思えました。
「…………」
アレスタは恥ずかしさを誤魔化すためか、口をへの字に曲げます。
「ふふ」
そんな姿が可愛らしく、わずかに笑みを漏らした私にアレスタが抗議の視線を向けます。しかし彼自身もそれほど気にはしていなかったようで、すぐに穏やかな表情に戻りました。
アレスタは身体から力を抜き、私に手を差し伸べます。
「じゃあ……」
「はい……」
既に熱がこもった言葉に、恥じらいながらも頷きます。そして、差し伸べられたアレスタの手を、私は透き通る自らの手で取りました。指を絡めて手をしっかりと握ると、くちゅりという水音と共に垂れた粘液が一筋、彼の腕を伝います。
「ん……しょ……」
なったばかりでまだ不慣れな身体に少し苦戦しながら、私は彼の身体に馬乗りになるような体勢をとります。腿から下の部分は人の足の形を溶き、より密着するように彼の身体を包み込みます。
同じくどろどろの粘液で彼の腰から下をも覆っていきます。
「服、脱がすね……」
「ああ、頼む」
彼の言葉に頷くと、私は意識を集中して粘液を操り、彼のベルトをなんとか外しました。そのままズボンと下着も脱がせます。
「わ……」
露になった彼のモノに、私の口から思わず声が漏れます。
ちなみにダークスライムになった私には、人間のときのような明確な生殖器と言うものは存在しません。一応、人間のときの姿を形作ってはいますが、おっぱいやあそこはあくまで見た目だけのもので、そこで性的に感じるというわけではないのです。けれども、その代わりに意識を集中すれば、あたかも全身が性感帯となったかのようにどんな場所でも快感を感じることが出来ます。
その証拠に、露にされた彼のモノを包み込む部分からは、手で触れているような、肌に擦り付けているような、膣内に挿入しているような、なんともいえない不思議な快感が伝わってきていました。
「ふぅ……あぁ……」
人が感じるものとは異質な快感に、自然と蕩けた吐息が漏れてしまいます。彼のモノから伝わる熱が私の体の中へと広がり、興奮に火をともします。
それだけでも気持ちよかったのですが、やはり物足りなくはあります。
「えと、じゃあ……始めるね」
頬を染めて囁く私の言葉に、アレスタの瞳が応えます。待ちきれなかったのは彼も同じだったようで、見下ろす彼の頬は赤く染まり、目には獣のような光が宿りだしていました。
「んっ……ん……」
彼の胸に手を置き、蕩けた下半身で彼を包みながら、私はゆっくりと身体を動かし始めます。体内に打ち込まれた彼の肉棒に意識を集中し、スライムを巻きつけてしごくようにしながら腰を打ち付けます。
互いの身体がぶつかり、べちゃり、べちゃりという水音が響くと共に、強烈な快感が私達を焼いていきました。
「はぁ……っ、あっ、ああぁ……っ」
熱病にかかったように、身体が熱くなっていきます。私は嬌声を上げ、次第に動きを早めていきました。私が跳ねる度に、ゼリーのような身体が震えます。
快楽がもたらす熱にやられていたのは、アレスタも同じでした。理性をなくした彼は獣のように私を貪り、その肉棒を突き入れて中をかき回します。
「や、あ……ふぁっ、あん! んあ……はぁん!! あぁん、はぅ、ああ!」
揺さぶられる私は歓喜の叫びを上げ、彼に合わせて動きます。下から激しく突き上げられ、私の身体からは汗のようにスライムの粒がはじけて宙を舞いました。
「ふぁぁ……あっ、ああん! だ、だめぇ……そんなにしたら、とけちゃう……気持ちよすぎてとけちゃうよぉ!」
強烈な快感が思考を押し流し、自我を失った私の身体の一部はどろどろと溶け流れ、彼の胸までを覆っていきます。私の中に彼を取り込むような、彼の中に私が浸み込んでいくような、そんな不思議な一体感を味わいながら、私達は昇り詰めていきます。
そして、最後に今までで一番深く私に突き入れた瞬間、短い呻きと共に彼の肉棒から白い粘液が噴出しました。その勢いに、私もまた絶頂を向かえ、背を弓のように逸らせて声を上げます。
「ああ……でてる……いっぱい、でてる……」
痙攣とともにびゅくびゅくと噴出す精液は私の身体と混ざり、犯していきます。おなかの中に肉棒と、白い液の粒が見えるというのは、背筋をぞくぞくさせる異様な気持ちよさを私に与えました。これもスライムの特権の一つなのかもしれません。
ですがそれもつかの間。やがて精液は薄れ、見えなくなります。同時に私はおなかがいっぱいになったような、不思議な感覚を得ました。精を食べ物とする魔物とって、えっちは食欲と性欲が一緒に満たされるもののようです。
「…………はぁ……ぁ……」
力の抜けた彼から、長い息が吐き出されます。
「お疲れさまです」
「そっちもな」
私の言葉にアレスタは笑い、私の腰の辺りに置いた手でそっと肌を撫でてくれます。まだ興奮の余韻が残る私は、それだけで声を上げてしまいそうになりました。
ようやく手を離した彼は、大きなあくびを一つします。
「なんか……結構体力使うな。あれか、気持ちよすぎて途中からペース配分も何も無しに暴走しちまったからかな」
「ですね。確かに想像以上でした。魔物の身体、おそるべし」
全くもって言葉の通りです。それは私自身がたった今、身をもって経験しました。気をつけないと病みつきになってしまいそうです。全身性感帯のスライムのえっちがあんなにすごいというのは、きっとスライムになった女の子にしか分からないことなのでしょう。
「悪いな、結構無茶しちまったかも。身体、大丈夫か?」
私の顔を覗き込み、心配そうに尋ねる彼に笑顔で答えます。
「平気ですよ。というかですね。えっちしたあとのほうが元気になったくらいです」
「そりゃよかった。……お互いこんな格好で、今更言うのもなんだけど……これから先、よろしくな」
頬をかくアレスタに、私も少し照れながら口を開き、答えを返します。
「ええ、こちらこそよろしくお願いします。えっちなダークスライムになっちゃいましたけど、どうか離さないでくださいね」
「今の状態を見るに、お前の方が離してくれそうにないけどな。ま、こっちもそんな気なんてさらさらないけどさ」
「ふふ。その言葉、信じてますからね」
妙な気恥ずかしさを感じながら私達は見つめあいます。ゆっくりと時間の流れる幸せなひととき。この人と一緒になれてよかった、そう強く思えました。
「ふぁ〜ぁ」
しばらくして、アレスタは再び大きなあくびを一つ。
「お疲れですね」
おそらく先ほどのえっちで体力を使い切ってしまったのでしょう。魔物になった私はともかく、彼は人間なので無理からぬことです。横たわったままの彼を、私はそっと撫でます。
「ん、悪い。起きたほうがいいか?」
「構いませんよ。しばらくこのままでも。あ、でもおなか出しっぱなしだと風邪ひきますよ。なんならほら、私の身体で包んであげましょうか」
私は足下のスライムを集め、彼の胸までを覆います。スライムのベールに包まれ、アレスタはリラックスした表情で目を閉じました。
「なんだか眠くなってきちまったな。なんつうか、お前に包まれてると布団の中にいるみたいでさ」
穏やかな呼吸を繰り返す彼の口から、そんな感想が漏れます。
「布団……」
いや、確かにそういうつもりではありましたけど。なんか妙に所帯じみた評価です。せっかく魔物になったのに。まあ「安心できる」とかそういう意味では褒められているんでしょうけれど。なんだかなあ。
「せめてもう少しロマンチックな表現を使ってください。母なる海に漂っているみたい、とか」
「まあ細かいことはいいだろ。どうせ誰もこないだろうし、少しこのままで休んでいこうぜ」
私の抗議も、だるだるな彼の前にはまるで効果がありません。
とはいえ彼の提案には、私も賛成でした。しばし彼と一つになったままでいたいとこっそり思っていたのです。
「ほれ、お前も寝ろ」
アレスタの腕が私を引き倒します。彼の身体に覆いかぶさり、私達は身も心も一つとなるように、夕暮れの闇に染まりだした教室の中、しばしの眠りにつくのでした。
――『ゆりかごの中の少年少女』 終わり
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