『幻視の日々』

 

「はっ……はっ……」

 夕暮れの街中を、両側を通り過ぎていく景色には目もくれず、ただ真っ直ぐにわたしは翔る。風が薄い色の長い髪を乱し、服の裾をはためかせるが、今のわたしにそれを気にしている余裕は無かった。

立ち並ぶ家々の切れ目から見える太陽は既に遠くの山の陰に消えていこうとしており、建物や街路樹がオレンジ色に染められた道の上に長い影を伸ばしている。

幸いなことに行く手に人影はなく、わたしがわき目も振らず道の真ん中を翔け抜けようとも誰にもぶつかる心配は無かった。

「はっ……はっ……」

 呼吸の音も荒く、わたしは家へと急ぐ。耳元に聞こえる音は、なんだか体に絡みつくようで煩わしい。今のわたしなら走ったくらいで息を乱すことなんてないはずなのに、たったこれだけの距離で息が上がるというのは、心を乱す焦りのせいなのだろうか。

「もう……すぐ……っ!」

 静かな通りを抜けると、家までの距離はあとわずかだ。古びたパン屋の看板を目印に十字路を左に折れ、狭い道を真っ直ぐに進むとようやく見慣れた我が家が見えてきた。

「随分遅くなっちゃった。パパ、心配しているかも」

 そんなことを考えながら、わたしは通りに直接面したドアを通り抜け、家の中へと入る。夕日は既に沈み、窓の外には青い闇が帳を下ろし始めていた。薄暗い室内を見回せば、テーブルの上には皿やコップが出されたままになっている。

「そうだ。今日は朝ごはんの後すぐに出かけちゃったから、片付けしていないんだった」

 しまったなあ、と頬をかいてみたものの。今から片づけをする意味はあまり無かった。もう、すぐにでも夕飯の時間になる。とりあえず片付けは夕飯の分とまとめてすることにして、わたしは二階へと上がっていった。

 二十数段の階段を上り終えた先には、ごく短い廊下があり、その正面には金属の取っ手が一つ付いているだけの粗末なドアが見える。我が家に特に門限というものは決まっていないものの、いつもよりも遅い帰宅にわずかな気まずさを覚え、わたしはほんの少しの間、部屋に入るのをためらった。

 そんなわたしの姿が見えているかのように、部屋の中から男性の落ち着いた声が響く。

「……おかえり。そんなところにいつまでもいないで、入りなさい」

「う、うん」

 包み込むような温かさと、聞くものに安堵を与える落ち着いた声に導かれ、私は部屋の中に滑るように入っていった。

部屋に入ってからも妙な気まずさを感じていたわたしは、居心地の悪さを誤魔化すようにちらちらと室内のあちこちに目を向ける。

 室内にあるのは小さな棚とテーブルが一つずつ。それから窓際に置かれたベッドだけであった。夕日の残光が照らす室内の中、白いシーツが張られた寝台の上には壮年の男性が身を起こし、こちらに穏やかな微笑を向けている。着ている物は簡素なクローク。鍛えられがっしりとした体は、ある種の風格を漂わせている。

「おかえり、エリシャ。今日は遅かったのだね」

「ご、ごめんなさい、パパ」

 いつも通りの静かな声に、わたしは俯き、反射的に謝ってしまう。視線を上げてちらりとパパの顔色を窺えば、そこにはいつも通りの優しい顔があった。

「いや、すまん。怒ったわけではないんだよ。ほら、こっちにおいで」

 パパが手を伸ばす。わたしは頷くと、宙をすべり、ベッドの上にちょこんと腰掛ける。パパの胸に頬をすりつけ十分に甘えると、顔を上げて間近からその顔を見上げた。

 わたしに微笑みかけながら、パパが口を開く。

「今日もたくさん遊んできたんだな。太陽の気配がする」

 布団の上で合わせられたパパの手に自分の手を重ねながら、わたしは頷く。先ほどまでの気まずさは綺麗さっぱりと吹き飛び、わたしは得意満面の表情でこの目に映してきた景色を語った。

「うん。今日はね、町はずれにある花畑にまで行って来たの。すごいんだよ? 丘の一面に色とりどりの花が咲いて、まるで花の絨毯がしかれたみたい」

「そうか、もうすっかり春になったのだな」

わたしの視線を受け、パパの顔が和らぐ。だがその瞳は先ほどからずっと閉じられたままだ。

いや、それはもう、ずっと前から。記憶が正しければ、わたしがパパに出会ったときから閉じられたままだったような気がする。

「以前にした怪我が、まだ治っていないのだよ」とパパは言う。実際、ついこの間までは目の上に包帯を巻いていたくらいだから、かなりの怪我だったのだろう。幸い「目」自体は傷ついていないので、時間さえ経てばまた見えるようになるらしいのだけれど、その日はまだ遠そうだった。

「そんな顔をしなくても、すぐに良くなるよ」

 わたしが沈んだ顔をしたのを察したのか、パパが優しい声をかけてくれる。目が見えない分その他の感覚が鋭いのか、こういうときのパパはわたしの考えや心を読んでいるんじゃないのかとさえ思えてしまう。

「それに、目が見えなくても、毎日エリシャが色々なものを見てきてくれて、私に見せてくれるだろう? エリシャが私の目になってくれている。日々を暮らすにはそれだけでも十分なくらいさ」

「パパ」

 その言葉に、わたしは頷く。そう、わたしにはパパと考えを共有することが出来る。それは比ゆ的な意味ではなく、本を読むかのようにお互いの考えを読み取り、伝えることが出来るのだ。その力を生かすため、わたしは様々なものを見ては伝えて、色々なことを手伝い、時にはパパの事を楽しませてきた。

この世で唯一、『ゴースト』のわたしだけが、パパの目になってあげられる。それはどこか誇らしく感じられた。

パパの手がわたしの頭のあたりに置かれ、髪を梳くように動く。実際には、実体の無いわたしの髪をその手が梳ることはできないが、それでも、その一撫でごとにわたしの心の中には温かいものが満たされていく。

「さ、今日の収穫を『見せて』おくれ。春の花か、久しく見ていなかったから楽しみだ」

「うん、パパもきっと気に入ると思うよ!」

 パパの言葉に自信満々で応え、わたしは彼の体に抱きつく。朝からつい先ほどまで、この目に焼き付けてきた穏やかな春の風景を思い浮かべるうちに、わたしの体は透き通り、パパの中に溶けるようにして吸い込まれていった。

 

・・・・・・・・・・・・

 

トントントンと、心地よいリズムで包丁が野菜を刻んでいく。傍らでは鍋の中で煮込まれるスープが立ち上る湯気と共に、香りを室内に漂わせていた。

二階での『上映会』は先ほど無事に終わった。どうやらわたしが見てきた春の光景は、パパにも楽しんでもらえたみたいだった。わたしが心に映し出す景色を見、わたしの解説を聞くたびに、パパは穏やかに微笑み、時には短い感嘆の声を漏らした。そんなパパの心の動きを、彼と一体化して感じ取ったわたしは、密かに満足感と嬉しさを味わっていた。

それから少しの間、わたしたちは二階の部屋で取り留めの無いおはなしをして時間をすごし、今わたしとパパは一階のキッチンで夕食の準備を行っている。

「あ、パパ。そっちの鍋、もうすぐ煮えるよ」

「ああ、分かった。エリシャ、そういえばスパイスの瓶はどこにおいたのだったかな?」

「ええと……あ、頭の上、右の戸棚の中だよ。うん、そうそこ。それから器、用意しておいた方がいいんじゃない?」

わたしはキッチンに立ったパパの側に浮かび、調理場全体の状況を観察、把握しては適時指示を伝えていく。浮かんでいるといっても、わたしの体、その腰から下はパパの背中に溶け込んでおり、二人の意識は繋がったままだった。この状態なら口に出さずともお互いの考えは分かるのだけれど、折角の「家族の団欒」ということで、わたしたちはこうした言葉のやり取りを楽しむことにしているのだった。

 程なくして料理が出来上がった。パパは慣れた手つきでスープをよそい、パンやサラダなど他の料理と共にテーブルに並べる。豪華とは言いがたいものの、彩りも考えられたメニューにはパパらしい温かさがあった。

パパは腰の後ろの結び目を解いてエプロンを外し、椅子の背にかけるとそのまま椅子に腰を下ろす。その様子を見ていたわたしは、パパから離れるとテーブルを挟んで向かい側にふよふよと浮かぶ。

こうして向かい合うと、パパの顔が良く見える。真っ直ぐにパパの顔を見つめていると、ちょっとだけ気恥ずかしくなった。もしわたしに血が通っていたら、既に顔は真っ赤になっていたことだろう。いや、なんだかほっぺたが熱いような気がするから、たとえ肉体は無くてもきっと頬は真っ赤になってしまっているに違いない。

わたしの内心を知ってか知らずか、パパはいつもの声と調子で言う。

「では、いただきます」

「いただきます」

その声に倣い、わたしも同じ言葉を発する。とはいえ幽霊であるわたしは普通のごはんを食べられないので、テーブルの上にはパパの分一人前しか料理は置かれていない。でもこれもやっぱり、気分の問題なのだった。一人で食べる食事も、一人でパパを待つ時間も寂しすぎる。わたしたちは家族なんだから、食事の席を同じくするのは当然のことだった。

食べられないから、食べる必要が無いからといってパパの食事に同席しないなんてことは考えられなかった。それに、わたしはパパの食事を見るのは好きだった。毎日繰り返される同じような光景であっても、飽きることは無かった。それは食事のときの姿だけではない。パパのことなら、片づけをする姿だって、私の目を通じて読書する姿だって、散歩する姿だって、静かに眠る姿だって同じだった。

きっと、わたしはパパ――ううん、この人の側にいること、それ自体が好きなのだ。ただその側にいられるだけで幸せなのだろう。

「エリシャ、どうかしたかい?」

 不意に黙り込んだわたしに、パパの声が掛かる。優しげな顔の中に、こちらを案じる色がわずかに混じっている。その表情に、パパが、わたしの大好きなこの人が自分を見てくれている、心配してくれているんだと分かって不謹慎にも嬉しさがこみ上げてきてしまう。

「ううん、なんでもないの。気にしないで」

 今は「接続」が切れていて良かった。そんなことを考えてわたしはくすりと笑う。

「……?」

首をかしげるパパから視線を外し、窓に目を向ける。夜の闇と室内の明かりが作り出す即席の鏡には、壮年の男性と向かい合う儚げな少女の姿が映っていた。

色素の薄い髪に、同じく薄く白い、傷一つ無い肌。幼さの影がほんのわずかに残る、少女と女性の中間のような顔。その中で真紅の瞳が灯りを受け、輝いている。体を包むのは透けるようなワンピース。胸元の赤いリボンはわたしのお気に入りだった、記憶の中にある衣装そのままだ。

ただ、窓に映るその輪郭は時折ぼやけ、全身からは燐光のような淡い光が発せられていた。そして当然、足は無い。腰から下のラインは段々と先細って行き、先端は空中に溶けるように消えている。

(幽霊、なんだよね……)

 分かってはいても、その姿を見るたびに自分が人間ではなくなったこと――既に死した存在であることを痛感する。天へと昇ることもできず、この世を彷徨う魂の迷い子。その言葉は、胸を静かに締め付ける。

 それでも、今は随分ましになったのだ。最初の頃なんて、自分が幽霊であることすら気づいていなかったのだから。わたしはもう死んでいて、その魂が「ゴースト」――魔物と化していると知ったときは、それこそ天地がひっくり返ったような、今まで見ていた世界ががらがらと音を立てて壊れるような気がしたものだった。

 もしかしたら、わたしはそんな現実を受け入れられず、荒れ狂う悪霊になっていたかもしれない。狂気と凶気に支配され、苦しみながら苦しみを与える存在と化していた可能性だってある。

 でも、今のわたしは自分が死んで、幽霊になったことを受け止めてここにいる。時々、死んでしまったことを実感して悲しくなることもあるけれど、今は、その現実にも折り合いをつけられていると思う。それは、わたし自身が成長したということなのかもしれなかったけれど、きっと、それ以上に……。

 そこまで考えて、わたしは視線を正面に戻す。いつもの静かで穏やかな雰囲気を纏い、閉じた瞳を真っ直ぐこちらに向ける男の人の姿がそこにある。

「ね、パパ。また後で、本を読んでくれる?」

「本? また突然のおねだりだな」

「ね、お願い。わたしが目になるから。パパに読んで聞かせて欲しいの」

「構わないよ。それじゃあ、夕食の後少し休んだら今夜は読書会としようか」

 わたしの申し出に片眉を上げながらも、パパは笑顔を浮かべたまま了承してくれた。

照れ隠しの甘え。きっと、本を読むためにわたしがパパと繋がったら、全部ばれてしまうんだろう。でも、それでも良かった。大好きな人に自分を理解してもらえるのだから。

「うん! 楽しみだな」

 また二人が繋がる時を思い浮かべ、わたしは満面の笑顔を作るのだった。

 

・・・・・・・・・・・・

 

 既に時刻は深夜となっている。夕の食事と、エリシャのナビゲートを受けながらの片付け、そして彼女のリクエストによる読書――というよりは、読み聞かせ――を終えた私は再び二階の自室に戻ってきていた。

 小脇に抱えた本を棚に戻し、ベッドへと向かう。既にこの部屋に関しては何がどこにあるか完全に把握していた。目が見えずとも部屋の間取り、物の配置は脳裏に寸分違わず思い浮かべられるため、本を片付けることくらいならばエリシャの手――いや、目か――を煩わせる必要はない。もっとも、彼女は私の目となることを面倒だなどとは少しも思いもしないのだろうが。

「ふう……」

 ベッドに横たわり、私は静かに息を吐き出す。まだ私の体の中にはエリシャが入ったままである。私との接続を好むのはいつものことだが、どういうわけか今日は妙に離れたがらなかった。

が、今はその思考が伝わってこない事から考えると、どうやら彼女は眠りについたらしかった。

(父と娘、か……)

 物音一つしない暗闇の世界にたゆたっていると、様々な考えが浮かんでは消えていく。そんななか、私はエリシャと出会った日のことを思い出していた。

 

 もう、一年ほど前のことになるのだろうか。

 あの日は、私の人生の中で最悪の日と言ってもよかった。王国の戦士団に所属していた私は、かねてより近隣の村や町を脅かしていた盗賊団の討伐作戦のため、仲間と共に都からこの町へとやって来たのだった。

私達の敵である盗賊団、彼らは神出鬼没で各地の自警団はおろか、王都の戦士団でさえ何度も取り逃がし、苦汁を飲まされていた。そんな相手の本拠地がようやく突き止められたとのことで、私達には大きな期待がかけられ、それ以上の責任を負っていたのである。

 作戦会議で聞いた話によると、件の盗賊団は非情に警戒心が強く、もしこちらの作戦がばれれば再び雲隠れされてしまうだろうとのことであった。とはいえ敵は少数の部隊だけで崩せるような規模の団ではなく、殲滅にはある程度の戦力と、極秘裏の行動が求められた。

そこで今回の作戦ではこちらの動きを気取られないよう、まずいくつかの町にごく少数で部隊を配置、待機し、こちらの戦力がそろったところで一気に急襲をかけるというものになった。

進軍は人目を避けて行われ、私達が予定の町に着いても、こちらの狙い通りやつらは私達の動きに気づいていないようだった。我々は勝利を確信し、最小限の見張りを残して作戦前の休息をとることにした。

が、それは敵の罠だった。内通者から情報を得ていた相手はこちらの作戦を逆に利用し、各町に分散している戦力を合流前に各個撃破すべく、一斉に夜襲をかけてきたのだった。

真夜中にたたき起こされた私達が目にしたのは、黒い夜空を真っ赤に焦がす炎。耳にしたのは剣戟の音と怒号、悲鳴。混乱した私達戦士団は戦線を無駄に拡大し、まともな反撃も出来ないまま町を丸ごと戦場にしてしまったのだった。

いつもは冷静な上官が恐慌に歪んだ顔で怒鳴り、私達は戦闘準備もそこそこに剣を持って死地へと駆り出されていった。

それから先は、実はよく覚えていない。火矢を放たれ、燃え上がる宿屋から仲間と主に飛び出した私は手にした剣を無我夢中で振り回し、敵にいくつもの傷を負わせ、それ以上の傷を負った。

血と汗と涙を流し、私は右も左も分からないままひたすら駆け続けた。敵と味方が入り乱れ、一人また一人と仲間の数は減っていった。

仲間を失い、ついには一人となったものの、私はなんとか敵の包囲から逃げ出すことが出来た。戦場からほうほうの体で逃げ出した私は、足を引きずりながらも身を隠しつつ歩き回り、いつの間にか路地裏へと迷い込んでいたらしかった。

血を流しすぎたせいか、そのときにはもう目は霞み、かろうじて見えるといった状態であった。ぼやけた視界のせいだけではなく、混乱した頭ではどこまでが現実で、どこからが幻なのかその判断もつけられなくなっていた。

敵に怯えつつ、息を潜めて様子を窺っていると、次第に戦いの気配は遠のいていった。どこかで上げられた荒々しい雄たけびがしばらくあたりに木霊していたが、やがて馬のひづめの音と共に人の気配が遠ざかる。

どうやら、私の所属する戦士団は敗走したらしい。私の所属していた部隊のほかに、わずかに生き残り、撤退していった部隊を追撃するため、盗賊団もここを去って行ったようだ。私はどうにか九死に一生を得たといえるだろう。

だが、だからなんなのだ?

味方はほぼ全滅し、自分は死に片足を突っ込んでいるような状況だ。生き残って、どうする?

荒い息をつきながら背を壁にもたれさせ、ずるずるとしゃがみこむ。霞んだ目には、暗闇の中あちこちで燃える炎の赤い色がいまだ焼きついていた。

ふと、何かを感じて顔を路地の奥に向ける。敵かと思い、刃こぼれだらけの剣の柄を握り締めた。だが、手に込められた力はすぐに緩んだ。そこにあったのは敵の姿ではなかったからだ。

気を抜けば閉ざされそうになる私の視界を、なんとか保つ。私の目には真っ黒な闇の中、炎とは違う明かりが浮かぶ光景が映っていた。

青白い、仄かな光。熱くもなく冷たくもなく、強くもなく弱くもなく、ただ灯る光。それはどこか危うげな、それでいて抗いがたい魅力を放っていた。

「……?」

 その正体を推測するよりも先に、私の足は動いていた。既に右目は閉ざされ、左目もほとんど見えていないような状態であったが、その明かりは脳裏に焼きついていた。まるで灯火に引き寄せられる蛾のように、私はふらふらとそちらに足を進める。

 それほど進まないうちに、私はその明かりの正体を知った。

「……これ、は……」

 若いというよりは、子どもといった方が正しいだろう歳格好の少女が、私の胸元ほどの高さに浮かんでいた。ひざを抱え、虚空で体を丸める少女の顔は窺えなかったが、その気配が悲しみに満ちていることは分かった。

 時折その体が震えるのは、泣いているからなのだろうか。

「…………」

彼女の姿にはある種、非現実的な美しさがあった。言葉一つかけられないまま、私は視線を下へとずらす。石畳の上に横たわっているのは、ボロ布を纏った何か。投げ出された細い腕、小さな足。長い髪は乱れ、地面には赤黒い染みがじわりと広がっている――

「……っ!」

戦場で幾度となく見てきたはずの「死」だったが、そのときの私にはいつものように感情を処理することはできなかった。かろうじて錯乱することは無かったが、ひどく混乱した。

亡骸の五体、腕や足はきちんと胴にくっついており、その意味で言えば比較的綺麗ではあったが、それが余計に、私の心を乱した。

私達がもっと早く盗賊団を倒していれば、いや、そもそもここに来なければ、この子は死ぬことなどはなかった。そんな考えが頭の中で何度も何度も繰り返される。

「すまない……。痛かったか? 苦しかったか? ……辛かったか?」

 気がつけば、私は宙に浮かぶ迷える少女の魂に一歩近づき、声をかけていた。私の声が聞こえたのか、少女の幽霊はその動きを止めると空中でくるりと音もなく回り、こちらに顔を向ける。

「…………」

かつては可愛らしいものであったろう少女の顔は、死の悲嘆と絶望に満ちている。そしてその瞳が宿すものは深淵の如き虚無だけであった。

 私の言葉にも、彼女は応えない。ただ死に塗りつぶされた紅の瞳で、こちらを見返すのみ。その視線が彼女を死に追いやった自分を責めるように感じられ、私はうつむいた。僧侶ならばこの迷える魂を天へと送ることが出来たのかもしれなかったが、剣を振ることしかしてこなかった自分にそんなことが出来るはずも無かった。

今の私に出来ることといえば、ただ、謝罪の言葉を吐き出すことしかなかった。

「すまな、かった……」

 感情が胸を締め付け、言葉が途切れかけたが、なんとか最後まで搾り出す。それでも、幽霊の少女はただじっとこちらを見つめているだけだった。耐え切れず、私がこの場を去ろうとした瞬間、彼女の口がゆっくりと動いた。

「……ぱ、ぱ?」

 壊れたゴーレムが出すような、ただの音の羅列。意味を持って発せられたのかさえも疑わしい言葉であったが、それを聞いた瞬間、自分の顔が歪んだのが分かった。感情の奔流が思考を押し流し、意識するよりも早く反射が体を動かし、私は両手を広げると出来うる限りの優しい微笑を浮かべ、彼女に声をかける。

「ああ……パパだよ。……おいで」

「……パパ! パパ!!

 私の言葉が届いた瞬間、瞳に知性の輝きが宿り、幽霊の少女に表情が戻る。彼女は文字通り私の胸に飛び込むと、泣きじゃくりながら何度も父と私を呼んだ。

「ずっと苦しかったろう……一人でつらかったろう……寂しかったろう」

私も自分の手が幽霊の体をすり抜けるのにも構わず、その体を抱きしめる。そして私は不器用ながらも精一杯に彼女を慰めるのだった。年端も行かない少女が突然の戦いに巻き込まれ、家族を、命を失ったことに、一体彼女の心はどれほどの衝撃を受けたことだろうか。私には想像もつかなかった。

「側にいて、パパ。どこにも行かないで」

 二度と離れまいとするように、少女の透ける手が私の胸元を掴む。血と汚れのこびりついた布をその手がすり抜ける光景に胸を痛めながらも、私は精一杯の温かな声で彼女に語りかけた。

「大丈夫だ、これからは私が側にいる……」

 その言葉に、幽霊の少女は安堵の表情を浮かべ、目を閉じる。同時に、彼女の体が一際強く輝くと、私の中に吸い込まれるようにして消えていった。辺りに一瞬、蛍の灯火のような儚い光が残る。

既に左目も光を失っていたが、最後に見た少女の姿は脳裏に焼きついていた。

 そっと、胸に手を当てる。この中に、あの少女がいる。脳裏に、彼女の言葉が浮かぶ。父と、声の限りに私を呼んでいた。

仮初の宿。一時の止まり木。偽りの家族。

それでも、私が彼女の父代わりとなってその心に一時の平穏をもたらすことは出来たらしい。

「これでこの子を残して死ぬなんて、無責任な真似できなくなったな……」

 自嘲気味に呟く。それでも、私の心に先ほどまで満ちていた絶望は弱くなっていた。

 この少女の魂が残した未練を解消し、彼女を天へと還す。それがこの町に地獄を呼び起こしてしまった私に出来る唯一の償いだと信じ、その日から二人、私はエリシャという名の少女の魂と共に、この滅びた町で暮らし始めたのであった。

 

「パパ?」

 不意に脳裏に響いた声に、私の意識は現実へと引き戻される。心の中で声と共にこちらに向けられた疑問の感情が、水面に描かれる波紋のように私の意識へと広がっていく。

「……起きていたのか」

「うん。目が覚めちゃった」

 言葉と共に、仰向けになった私の胸からエリシャの姿が立ちのぼる。彼女は空中に浮いたまま、うつぶせになるような格好で自分の頬に両手をあて、私の顔を覗き込んだ。

エリシャは私から目を逸らさずに、尋ねる。

「ねえパパ?」

「うん? なんだい」

「たとえ生者と死者でも、人と魔物でも、血のつながりが無くても……わたしたちは、ずっといっしょだよね?」

「……」

 エリシャの魂を天に還す。それが私の償いのはずだ。そのためには、いつか別れなければならない日が来る。彼女が新たな命としてもう一度この世にやってくるためにも、そうでなくてはならないのだ。

だが。彼女の言葉を聞いて、別れたくない、このままエリシャと一緒に暮らしたいという欲求が心の中で頭をもたげたのが分かった。

紅の双眸が、真摯な光を湛えてこちらを見つめている。その瞳を見つめ返す私は、目の前の少女に贖罪や義務感を超えた感情を抱いていることを認めた。

 そしてそれを理解した瞬間、口からは自然と言葉がこぼれていた。

「ああ、ずっと一緒だとも。私達はいつまでも一緒だ」

私の言葉、意識がエリシャに届いた瞬間、彼女は嬉しそうに目を細め、心からの笑顔を浮かべた。

 彼女が目を閉じ、そっと口付ける。現実には感触の無いキスだったが、私達の魂はそれ以上のものを感じていた。

 

・・・・・・・・・・・・

 

 ほんの数瞬の、キスというにはあまりにも短いふれあい。それでも、わたしには今までの中で最も長い時間に感じられた。

 少しだけ名残惜しく思いながらもわたしは顔を離し、空中に浮かんだまま口を開く。

「パパ、わたしとひとつになろ……?」

 肌が触れ合いそうになるほど近くから、わたしはパパの瞳を覗き込む。力強いなかに優しさをもつ、男の人の顔。静かに下ろされた瞼の下の瞳にわたしの姿が映っていなくとも、パパなら今わたしがどんな顔をしているか想像はつくに違いない。

「ああ……ひとつになろう」

 ゆっくりと、ひとつひとつの音に想いを含ませながら、パパの唇から言葉が発せられる。

「ありがとう、パパ」

 心を歓喜で満たしたまま、わたしはもう一度パパの中に自分を溶け込ませていく。視界が闇に閉ざされ、代わりに静かで暖かな感触がわたしの魂にゆっくりと響いてくる。

「エリシャ」

 聞きなれた大好きな声が、わたしの心に届く。黒一色の世界の中、目の前にはいつの間にかパパが立っていた。自分を見下ろせば、白いワンピースに包まれた少女の体が見えた。幽霊の下半身ではなく、ちゃんと足もある。この世界では、わたしは自分の足で立ち、歩くことが出来る。

 彼の手が差し出される。わたしはゆっくりと歩き、その手をとった。魂がつながり、溶け合うような感覚。それは肉体同士のふれあいからでは得られない、官能的な感触だった。

「今はただ、幸せな夢だけを……」

 祈るように囁き、意識を集中する。心に望む景色を思い浮かべ、世界を塗り替えていく。私の意識に一瞬世界が真っ白に塗りつぶされ、その光が引いたとき、辺りは花々が咲き乱れる春の草原に変わっていた。

「これは……昼間にエリシャが見てきた光景だね」

 わたしの肩に手を置き、パパが呟く。それに頷くとわたしはくるりと体を回し、パパに抱きついた。

目を閉じて顎を上げると、すぐにパパの唇がわたしに触れる。

「んっ……」

 全てが幻の世界であっても、そのやわらかく暖かい感触は現実のもの以上の実感を持っていた。わたしは夢中で唇を押し付け、彼の口内へと舌を伸ばす。

 パパもまた、わたしに応えて舌を絡めてくれた。

「んんっ……ちゅ、ぴちゃ……あむ……」

 夢中で口内を貪り、唾液を塗りたくる。舌同士が触れ合うたびにパパからわたしへと、暖かなものが流れ込んできた。

 長い長いキスを終え、わたしたちは顔を離す。最後にパパの体をぎゅっと抱きしめてから、わたしは一歩離れる。互いに一言も言葉を発せず、ただじっと見つめあう。暖かな風が吹き抜け、わたしの長い髪を舞わせた。

「それじゃあ……脱ぐ、ね……」

頬を染め、わたしは言う。上目遣いにパパの顔を覗き込みながら、一個一個ゆっくりと服のボタンを外していく。衣擦れの音だけが、辺りに響いた。

ワンピースが花の上に落ち、わたしは一糸纏わぬ姿をパパの前に晒す。

「……ん……っ、そんなに見られてると、恥ずかしい、よ……」

 真っ赤になりながらわたしは視線を逸らす。一歩近づいたパパが、そっとわたしの体を抱きすくめた。無意識のうちに震えたわたしを安心させるように、耳元でそっと囁く。

「大丈夫だよ、エリシャ」

 その声にこくんと頷き、わたしは体から力を抜く。パパの大きな手がそっと胸に当てられ、わたしはゆっくりと花の絨毯の上に押し倒されていった。

 わたしは指を絡めて、パパの手を握る。この先の行為を想像し、口がわずかに震えたが、パパの瞳に間近で見つめられると恐怖はかき消えていった。

決意を胸に一度瞳を閉じ、もう一度ゆっくりと開いて目の前の愛しい人の姿を心に焼付けながら……わたしはその言葉を口にした。

「パパ……わたしを、もらってください……」

 そして、わたしは全てを彼に捧げたのだった。

 

・・・・・・・・・・・・

 

水の底から上がっていくように、ゆっくりと意識が浮上する。目を開けようとも私を包むのが暗闇に閉ざされた世界であるのは一緒だったが、ここが先ほどまでの幻想の世界ではなく、現実の世界に戻ってきたことは皮膚に伝わる感触で分かった。

手に、シーツが触れる。気だるい疲労感が全身に溜まっていた。たとえ幻想の世界でも――いや、幻想の世界だからこそというべきか――精気は消耗するようだった。

長い息を吐き出し、先ほどの行為に思いを馳せる。幸福感が、心に残っていた。それが彼女との交わりが「確かにあったこと」だと証明してくれていた。

「おやすみ。今日もありがとう」

 感謝の言葉を伝え、自分の胸にそっと手を当てる。直接触れることは出来なくても、そうすれば心で触れ合えるような気がした。

「…………」

 返事は無い。だが、ほんの一瞬、私の胸の奥がじわりと温かくなった気がした。きっと、彼女の魂が応えてくれたのだろう。

私は体の力を抜く。愛する娘と文字通り一つになっているという心地よい満足感に包まれ、私の意識もすぐに眠りへと落ちていった。

 

 

『幻視の日々――Ghostly days』 終わり

戻る