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『竜婚礼記』
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山間の小さな村に住む少年――クベルの朝は、竜の咆哮と共に始まる。
「ふぁ……。もうそんな時間かぁ……」
いつものように大空の向こうから聞こえてきた声で目を覚まされ、クベルはベッドから
身を起こした。あくびと共に呟く声に、窓の外から飛び立つ小鳥の羽根音が応える。
「……ねむ……」
年のころは十六、七くらいだろうか。あどけなさを残す容貌の少年は、眠りの世界を名
残惜しそうに目をこする。この辺りの民には珍しい漆黒の髪の下、開かれた目は美しい緑
玉の色をしていた。
「だる〜……」
寝起きの頭はいまだぼんやりと靄がかかっていたが、ベッドの上に座っているうちに段
々と意識もはっきりしていったようだ。
体にかかっていた毛布をどかし、立ち上がる。窓を開けると、雲ひとつなく澄み渡った
大空が見えた。朝の気配をいっぱいに含み、吹き込んだそよ風がカーテンをわずかに揺ら
す。
「ん、今日もいい天気だ」
窓から身を乗り出し、朝から力強く降り注ぐ陽射しに目を細め、空を見上げる。彼の声
に答えるように空からは先ほどと同じ大気を震わせる声、そして力強い翼の音が近づいて
くる。
頭上を見上げれば、悠々と飛ぶ竜の姿が目に入った。その巨体が太陽を遮り、地に
影が落ちる。
「あいかわらず元気だな」
クベルは呟き、空を翔る竜を目で追う。この世界に住む魔物の中でも、強大な力を持つ
竜の姿をその目で見たにもかかわらず、彼の声に驚きも恐怖もなかった。むしろ変わらぬ
姿に安堵しているような気配すら漂っている。
だがそれも当然。
なぜなら件の竜は彼やこの村の住人にとっては守り神として古くから知られ、共に暮ら
してきた存在だからである。人よりもはるかに強大な力と高い知性を持つ竜族は、この村
のみならず世界各地にその存在が確認されている。だが、いま大空を悠々と飛ぶ彼の竜は
よその人々が噂するような、人を襲い害する邪悪な魔物とはまったく別の存在であること
を彼をはじめ村の全員が知っていた。
やがて竜は村を取り巻く森の向こう、彼の家からは少し離れた場所にある空き地に降り
ていった。木々の陰にその巨体が隠れるのを見届けると、クベルは慌てて自分に言う。
「おっと、こうしちゃいられない。着替えないと」
あと数分もしないうちに、「彼女」がやってくることだろう。待たせでもしたら、どん
な目にあうことか。
「やれやれ」
ほんのわずか、苦笑いに口元を緩めるとクベルはクローゼットへと向かう。だがその声
とは裏腹に、彼の後姿はどこか楽しげであった。
シャツの上にベスト、はきなれたズボンにベルトを締め、いつもの服装へと着替えたク
ベルは寝巻きをベッドの上に無造作に放り投げる。くしゃくしゃになったシーツや毛布と
いい、ベッドの周りに散らかる本やら雑貨やらといい、室内はだらしないとしか言いよう
のない惨状であったが、一人暮らしである彼にはその散らかり具合を責めるものもいない。
とはいえ流石の彼にもそろそろ室内の散らかりようはまずいかなという考えが浮かぶ。
きちんと片付けないとデビルバグやらに住み着かれるかなと頭の片隅で思うとほぼ同時。
彼の聴覚は家の外から聞こえてくる軽やかな足音を捉えた。靴のものとはわずかに違う
響きを持つ足音は彼の家の前で止まり、続いてどんどんと勢いのいいノックの音が彼の耳
に届く。
「く〜べ〜る〜っ! お〜き〜て〜っ!」
絶え間なく戸を叩く音に混じって、少女の声が響く。
「もう来たか。はいはい、起きてるよ」
毎日のように聞いているその声に変わりのないことを確かめ、クベルは安堵の笑みを漏
らしながらドアへと向かった。いくら丈夫な木製の扉とはいえ、放っておいたら彼女の力
で粉々にされてしまいかねない。
「ほら、ファフ。今開けるから」
少女の声に応え、クベルは鍵を外す。すぐさま開かれた扉の向こう側には、真紅の髪を
した美しい少女が立っていた。ファフと呼ばれた彼女はクベルの姿を目にすると満面の笑
みを浮かべ、一際元気な声を出す。
「おっはよ〜! クベル!」
「おはよう、ファフ」
クベルの挨拶に、ファフは嬉しそうに目を細める。彼女の腰から伸びる、硬い鱗に覆わ
れた尻尾も、同じく少女の内心を表してゆっくりと振られていた。
そう、ファフの体には人が持つはずのない器官がある。尻尾だけではない。真紅の髪か
らは鋭く尖った一対の角と、ヒレのようなものがのぞいているし、顔やお腹、肩や太もも
など一部は人と同じ肌色の皮膚をしているが、腕や足はその途中から尻尾と同じ紅く硬い
鱗に包まれ、背には皮膜の翼が折りたたまれている。
人間の娘と竜を一つに合わせたような姿。それが先ほど大空を飛んでいた竜――この村
の守り神の一族である火竜、ファフの人間形態なのである。少女の姿は初めて見る者から
すれば異形としか言い様のないものであったが、既にその姿を見慣れたクベルたち村の人
間にとっては今更騒ぐどころか、話の種にもなりはしない。
クベルの前に立つ竜の少女、ファフは衣服らしいものは何一つ身につけていなかったが、
代わりに硬質の鱗がなだらかな曲線を描く胸や、股間といった場所を覆い隠していた。
「……」
ドラゴンという魔物である彼女の価値観が人のそれと違うのは当然だが、それでも異性
の前である意味裸に近い格好をしていて、恥ずかしかったりしないのだろうかと少年は思
う。
そんなことをぼんやりと考えていたクベルの手を、不意にファフが握った。彼女の金の
瞳が彼を上目遣いに見つめ、首をわずかにかしげる。
「クベル、どうかした?」
「ん? あ、いや、何でもないよ」
「そう?」
一瞬どきっとしてしまった、などと正直に言うわけにも行かず、内心の動揺をなんとか
覆い隠して平静を装ったクベルはファフに言う。彼女の方もそこまで深く追求する気はな
かったようで、すぐにいつも通りの表情に戻った。
ファフは握ったままのクベルの手をくいくいと引く。彼がそちらに顔を向けると、竜の
少女は満面の笑みを浮かべたまま言葉を発した。
「おさんぽ行こ、クベル!」
「散歩? こんな朝っぱらから? ……って、ちょっと、ま……!」
彼の返事を待たず、ファフは駆け出す。崩れかけたバランスをなんとか立て直して転ぶ
のを回避すると、引っ張られるようにしてクベルは歩き出した。
「あいかわらず強引だなあ。……ま、別にいいけど」
竜の少女に気付かれないように、クベルはかすかな溜息を漏らす。
しかし改めて見ても、異形の姿はともかく、あどけない顔立ちや無邪気な態度、行動か
らは自分の手を引いて歩くファフは十歳をわずかに過ぎた幼い少女にしか思えない。
だが、実際はファフの年齢はクベルの歳のはるか上を行くのである。そもそも、この村
の中の誰一人、今彼の目の前にいる竜より長く生きているものはいないのだ。長老でさえ、
ファフと比べるとその半分も生きていないそうだ。人間よりはるかに長命を誇る竜族の感
覚は自分達と異なっていることに納得させられるわけである。
それでも、ファフは長命な竜族の中では歳若い方に入るらしい。かつて彼女自身、30
0歳にも満たない自分は竜族の中では子どももいいところなの、と言っていたのをクベル
も聞いている。
もっとも、子供っぽい言動が目立つ今のファフでさえ、知識の量や秘めた知性は王都の
賢者とは比べ物にならないものを持っているらしい。ただ、それを生かすには経験が圧倒
的に足りないのだそうだ。
実の所、この村の守り神としての任はいまだ先代の竜――すなわちファフの母親だ――
が担っている。母からファフがその役目をまだ正式に引き継いではいないということから
も、彼女は文字通り「子ども」であることが窺える。
もっとも、ファフの立場が「子ども」でいられるのも後わずかの間だけだ。数日後には
彼女は母親の火竜から「村の守り手」としての任を正式に継承するのだという。大きな責
任を背負う立場になれば、彼女も今まで通りではいられないだろう。
そしてその日の訪れは、クベル自身にも大きな変化を迫ることになる。
まだ朝の気配が色濃い村の中を、クベルはファフと連れ立って歩く。天気がいいせいも
あるだろう、道には農具を背負い、畑に向かう人影もちらほらと見えた。連れ立って歩く
少年と少女に気づいた村人は皆その顔に微笑を浮かべ、親しげに声をかけてくる。
「おはようございます、ファフ様。おはよう、クベル」
「おっはよ〜」
ニコニコと無邪気な笑みを浮かべながら、ファフは村人達に挨拶を返す。彼女の明るい
声と笑顔を見た村人達は「いいものを見た」と言わんばかりに微笑を浮かべ、歩き去って
いく。
確かに、クベルにも彼らの気持ちは分からないでもなかった。竜の少女の花咲くような
笑みは、見る者にも自然と笑顔を浮かべさせる力を持っている。人を幸せな気分にさせる、
という点から見れば、今のファフも十分この村を守っているとも言えるだろう。もっとも、
ファフ自身はそこまで深く考えてはいないだろうが。
ファフの横顔から視線を前に戻し、ふと目を向けた先。杖をつきながらこちらに向かっ
て歩いてくる一人の老人が見えた。
「……ん? 向こうから歩いてくるのは……?」
白髪頭と同じく、真っ白いあごひげが特徴的な老人の姿はクベルも良く知っている人物
で、多少離れたこの距離でも見間違うはずがない。この村の長である。
向こうもクベル達に気付いたらしく、ゆっくりとした足取りはそのままに彼らの方へと
歩いてくる。程なくして互いの顔がわかるくらいの距離までくると、長老は足を止め、竜
の少女に頭を下げた。
「おじいちゃんおはよー!」
他の村人達への挨拶と同じく、ファフは元気な声を出す。そんな少女を長老はやさしげ
に目を細めて見つめ、挨拶を返す。
「おはようございます、ファフ様。御変わりなくなによりでございます。今日は朝早くか
らお出かけですかな?」
「うん! クベルとお散歩なの」
長老の問いかけに、クベルと繋いだままの手をぶんぶんと振り、ファフは答える。
「ははあ、それでご機嫌なのでございますか」
長老は孫を見守る祖父のような暖かな笑みを浮かべ、楽しげに話すファフの言葉に相槌
を打つ。それからクベルへと目を動かし、言う。
「クベル。いくらお前とはいえ、ファフ様に失礼の無いようにな」
「分かってるって」
少しばかり不機嫌そうな声でクベルは長老に返す。その後もあれこれと注意する長老の
言葉を遮り、クベルは言う。
「大丈夫、ちょっとその辺りを見てくるだけだよ。すぐに戻るって」
「なら良いが。村の外では何が起こるかわからんからの」
そう言うと長老は二人の顔をもう一度見、念を押す。
「ファフ様とお前は十日後に式を控えた身。十分気をつけるのだぞ。ファフ様、クベルを
よろしく頼みます」
「わかった! クベルはわたしが守るね!」
長老の言葉にファフは胸を叩き、力強く宣言する。そんな少女の様子にやれやれと頭を
かくクベルだったが、確かにこれ以上のボディーガードはないだろうと思えた。
自分より頭一つは小さい傍らの少女に目をやる。長老から彼の安全を任されたことが嬉
しいのか、ファフの顔は満足げだ。
その表情にクベルはそっと口もとを緩める。それに気付いたファフが彼を見上げ、疑問
の視線を投げかけるが彼は彼女の頭をそっと撫で、それから長老に頭を下げると再び歩き
出す。
「あっ? まってよクベル〜!」
背後から慌てた少女の声がかけられるのを聞きながら、彼は村はずれに向かって足を進
めるのだった。
長老と別れた二人は村を出ると、木々に囲まれた細い坂道を歩いていく。街道へと続く
道とは反対方向に伸びるこの道の先は、村の近くにある小さな山へと続いている。珍しい
ものが取れるわけでもなく、特に見所があるわけでもないその山へと向かう者は旅人や商
人はおろか、村人にもおらず、道を歩いているものは、当然ながらクベルとファフ以外に
はいなかった。
枝葉を広げる木々が頭上からの日差しをさえぎり、辺りはほんのりと薄暗い。木漏れ日
が地面に落ちて作る影は時折風にゆれ、複雑で不思議な紋様を描いていた。
クベルとファフは特に言葉を交わすこともなく、のんびりとゆるやかな坂道を歩いてい
く。紅い鱗に覆われた尻尾が左右に揺れるのを見ながら、少年は自分の前を歩いていく少
女の後をついていく。
ふいに、揺れる尻尾が動きを止め、代わりにファフの髪からのぞく耳がぴくりと動いた。
同時に足を止めた彼女に、クベルは疑問を浮かべて声をかける。
「どうかした?」
尋ねるクベルもファフの答えを待つまでもなく、彼女が立ち止まった理由に気付いた。
彼らから十歩ほど離れた先、道の端の草むらががさごそと不自然に動いている。
野生の獣だろうか。村に近いとはいえ、森の中には様々な獣がいる。人を襲うようなそ
れと遭う可能性もゼロではない。
「クベル、気をつけて」
ファフはクベルに小さな声で注意を呼びかける。いつもの調子と違い、緊張をにじませ
た声はそれだけで彼の気を引き締めるのには十分だった。無意識のうちに、彼の体が強張
る。
「大丈夫。わたしがいるよ」
少年の恐怖を感じ取ったファフは自分の背にクベルを庇うと、肩越しに声をかける。幼
い少女の声にもかかわらず、そこには聞くものに安堵をもたらす絶対の自信があった。た
った一言の言葉だけで、彼の心からは不安が消えていく。
「んじゃ、お願いしていいかな」
「まかせて!」
クベルの言葉ににっこり笑うと、ファフは表情を引き締め再び前方を睨む。手をぐっと
握って身構え、全身に力をみなぎらせる。鋭く睨んだ先、いまだ揺れる茂みに向けて大き
く息を吸い込み、灼熱の炎を吐き出そうと――
「わああ! まって! まって!」
ファフの口からまさに炎の吐息が吐き出されようとしたその瞬間。大慌ての声と共に茂
みから人影が飛び出す。子供ほどの背丈のそれは道の真ん中に躍り出ると、両手を突き出
し必死で彼女を制止する。
「え?」
そのあまりの予想外の事態に、ファフは思わず吐き出そうとした息を飲み込んで動きを
止める。目をぱちくりと瞬かせ、ぽかんとした表情で目の前の人物を見つめた。
「あ、君は……」
同じく飛び出してきた者に目を向けたクベルも、その正体に気づく。少なくとも相手が
こちらに害意を持つような存在ではないと分かり、無意識のうちに体から力が抜けた。彼
は安堵と呆れが交じり合った息を吐きながら、飛び出てきた人影に言う。
「この山に住むゴブリンさんか」
彼らの目の前に現れたのは、クベルの言葉通りの魔物の一種、小鬼――ゴブリンの少女
だった。
子供ほどの小柄な背丈に布の服を纏った姿は、一見しただけではどこにでもいるような
ごく普通の少女に見える。が、赤毛のショートヘアからは小さな角がちょこんと見えてお
り、また尖った耳も人のそれとは違っていた。
人懐っこそうな――いまはファフに対する怯えの色が見えるが――ゴブリンの少女の顔
には、クベルは見覚えがあった。
「ええっと、うちの村にもよく来てる子だよね?」
旅人を襲い荷を奪ったり、人攫いをしたりすることで知られるゴブリンだが、この山に
住む彼らは人間と上手く付き合おうと考えているらしく、月に何度か工芸品や山で取れた
鉱石や果実などを持ってクベルの村に交易に来る。その中にいたゴブリンの少女の顔をク
ベルは覚えていた。
「そうなの、クベル?」
クベルの言葉に傍らのファフは警戒を緩めつつも、彼とゴブリンの顔を交互に見る。ど
うやらこの守り神様には、さっぱり記憶にないらしい。
「ああ。ついこの間も村に来てた」
「は、はいっ! そうです! いつもお世話になってます!」
クベルの言葉を、ゴブリンの少女はぶんぶんと首を振って肯定する。彼女が早口なのは
半ばパニック状態だからなのだろう。無理もない。今のファフは人の姿をしているとはい
え、その正体はドラゴン。そんな最高位の魔物に攻撃されそうになったのだから、パニッ
クになるのは当然の反応といえた。
「それにしても何で待ち伏せみたいな真似を? 追いはぎじゃああるまいし」
「追いはぎ?」
クベルの言葉にファフの目が細められ、口元からは炎がわずかに漏れた。それだけでゴ
ブリン少女の体がびくりとはねた。竜の瞳が向けられると、彼女はひ、と小さく悲鳴を漏
らす。
「わたしたちの、敵?」
歴戦の戦士も裸足で逃げ出すような威圧感を放ちながら、ファフはゴブリンの少女に問
いかける。既に顔面蒼白になりながらも、ゴブリンは身の潔白を証明しようと間髪いれず
に口を開いた。
「わああ違います! そんなことちっとも考えてません! ごめんなさい! ちょっとお
どかそうとか思っただけです! いたずらしようとして本当にごめんなさい! だから燃
やさないで〜!!」
目の端に涙を浮かべ、必死で弁解の言葉をならべる彼女の姿は、見ていて気の毒になる
ほどだ。クベルはへたり込んでしまったゴブリン少女に近づくと、頭を撫でてやさしく声
をかける。
「大丈夫、そりゃちょっとはびっくりしたけど、追いはぎなんかじゃないって分かってる
から」
「ほ、ほんとうですか……?」
「ほんとほんと」
クベルの言葉に、ゴブリンは顔を上げる。彼は頷くと、いまだ敵意むき出しのファフに
向かって諌めるように声をかけた。
「ほら、ファフもそんな睨むのやめろって」
「む……。クベルが言うなら、しかたないね」
かすかに不機嫌そうな声を漏らしながらも、彼女はクベルの言に従い体から力を抜く。
張り詰めていた空気がやわらぎ、ゴブリンは安堵に大きく息を吐き出した。
それからしばし。なんとか落ち着きを取り戻したゴブリンの少女――ココとクベルたち
は連れ立って山道を歩いていた。何でも、迷惑をかけたお詫びに彼女だけが知っていると
っておきの場所を教えてくれるらしい。
「こっちですよ〜。ちゃんとついてきてくださいね〜」
流石はこの山に住むゴブリンというべきか、クベル達の前を歩く小鬼の少女は決して歩
き易いとはいえない道を、ひょいひょいと軽やかな足取りで進んでいく。結構な距離を歩
いたと思うが、彼女に疲れの色は全く見えなかった。その後ろに続くファフも同様である。
そんな彼女らの様子を見、クベルは独り言を漏らす。
「魔物ってすごいな……」
彼の額には汗が浮かんでいた。人よりはるかに優れた体力を持つドラゴンのファフはと
もかく、ただの人間であるクベルにとっては彼女らについていくだけでもなかなか大変な
のである。
ふうふうと息を荒げるクベルに、心配そうな表情を浮かべたファフが声をかける。
「だいじょうぶ、クベル? わたしがおんぶしてあげようか?」
「いや、いい。大丈夫だよ」
無理やり笑顔を作り、クベルは答える。実際は強がりもいいところであったが、それで
も男である以上、彼にもプライドというものがあるのだ。いくらキツイとはいえ、外見年
齢が自分より下の女の子におぶさるという選択肢は、彼の中には存在しなかった。
そんな二人の様子を見ていたココは、興味深げに口を開く。
「それにしても、村の人が山に入ってくるなんて珍しいですね。しかもドラゴンさんと一
緒に、なんて」
「ん? ああ、まあね」
ココの問いにクベルは額の汗を拭いながら返す。彼女の疑問も当然ではあった。この山
が不可侵領域というわけではないが、昔から人間はふもとの村、ココたち魔物は村の外、
といったように、それぞれの種族は「住み分け」が自然と出来ている。そこに村人が、し
かもドラゴンという高位の魔物と一緒にやってくれば気にならないはずがない。
「まあ、成り行きで」
「成り行き、ですか。それにしても随分と仲がよろしいみたいですし、お二方はどんな関
係なんです?」
「ん? 関係か……」
その言葉にクベルはどう答えたものかと考える。だが、彼の考えが纏まるよりも早く、
ファフが口を開いた。
「わたしとクベルは将来を誓い合った仲なのよ」
えっへん、といわんばかりに胸を張り、自信満々で答えるファフ。
「将来を……?」
どう見ても幼い子どもでしかない彼女の姿に、ココは訝しげな表情を向ける。
「恋人同士というよりは……兄妹っていった方がまだしっくりきますけど」
ココの言葉を聞きながら、クベルはまあそうだろうなあと苦笑する。実年齢はともかく、
現在の二人の外見年齢には差がある。おませな女の子が結婚を夢見ているように感じられ
ても無理はない。
だが、ゴブリンの少女の言葉と視線にかちんときたのか、ファフは猛然と反論した。
「嘘じゃないし、別におかしくないもん! もうすぐクベルはわたしと結婚するんだもん!
二人が一緒にいるのもあたりまえなの!」
「そうなんですか?」
クベルの方に尋ねるような視線を向けたココに、彼は肩をすくめつつも肯定した。
「あー、まあ。間違っちゃいない」
ファフの肩に手を置いてなだめながら、彼は言葉を続ける。
「この子は村の守り竜の血族でね。俺はその『供物』として捧げられる役目……まあ、要
はこの子のところに婿入りすることになってるのさ」
「ああ、なるほど、そういうことでしたか」
クベルの説明に、ココは得心がいったとばかりに頷く。彼の言うようなことは、別段珍
しいことでもない。庇護を得る代わりに何かを差し出す例は、古今東西枚挙に暇がない。
「もっとも、役目だけが理由で一緒にいるわけじゃないけど、ね」
振り返り顔を見上げるファフに、クベルはやさしく微笑を浮かべる。言葉の意味がわか
っているのかいないのか、彼女もまた、笑みを浮かべた。
それから三人はさらに山道を歩く。時折木陰から物珍しそうな目で彼らを見つめるフェ
アリーの姿があったが、ドラゴンの少女に目を向けられると慌てて木陰に隠れてしまった。
「そんなに脅かさなくてもいいだろうに」
呆れ声でたしなめるクベルに、ファフはふんと鼻を鳴らして言う。
「あまいよクベル! 油断してて妖精にさらわれちゃってからじゃ遅いんだから!」
「やれやれ……頼りになる守り神様だよ」
そんなやりとりをしている二人に、数歩先を歩いていたココが足を止めて振り返った。
同じく立ち止まったクベルたちに彼女は前方を指差し、言う。
「この先が私のとっておきの場所。ここまで来れば、目的地はもうすぐそこです」
ココの指し示す先では、ちょうど生い茂る木々が途切れているようだった。ぽっかりと
空いた緑のトンネルの出口から、太陽の光が差し込んできている。
クベルたちの視線が森の出口を確認すると、ココはぺこりと頭を下げる。
「それでは、これであたしは失礼しますね」
「へ? 帰っちゃうの?」
声を上げるファフに、ココは頷く。
「ええ。いつまでもご一緒では、お邪魔でしょうからね」
「……あー」
いたずらっぽく片目を瞑る少女に、クベルはぽりぽりと頬をかく。
「道案内ありがとう。助かったよ」
「ありがとう!」
「いえ、こちらこそ。楽しかったです」
二人の感謝の言葉にゴブリンの少女は頬をわずかに染め、再度頭を下げる。彼女はクベ
ル達の横を通り抜け、数歩進むと振り返った。
「それでは、ご縁があればまた」
「またね〜!」
ぶんぶんと手を振るファフに、ココも手を振り返す。彼女の姿が木々の向こうに消えて
見えなくなると、彼らも再び歩き出した。
木々のトンネルを抜けると、そこは開けた丘の上だった。草が一面を緑に覆う斜面の向
こうには、小さくクベルの村が見える。思ったよりも、随分と高い所まで登ってきていた
ようだ。
視界に映る景色は雄大で美しく、確かにココが「とっておきの場所」と言うだけはあっ
た。
「あ、ほらクベル! あそこわたしのうちのある山だよ!」
ファフが指差す先、村をはさんでちょうど反対側に見えるのが、彼女の住む山である。
威容を持ってそびえるその姿は、どことなく竜の印象と似通っていた。
ファフと共に竜の山を見つめているうちに、クベルはふと、先ほど長老の言っていた言
葉を思い返した。自分とファフが行う式の日まで、後十日。
「……儀式、か」
クベルがぽつりと漏らした言葉に、ファフが顔を向ける。彼女は俯き、恐る恐るといっ
た様子で切り出した。
「ねえクベル。クベルは本当に、よかったの?」
いつになく真剣なファフの声に、クベルは彼女に目を向ける。
「ん?」
「竜の供物として捧げられた人間は、その後人界と関わることは無くなるのは知ってるよ
ね。それがわたし達の一族とあの村の約定とはいえ……本当に、それでいいの? 村の人
のためとはいえ、自分の一生を犠牲にするなんて……」
だらりと下げた手を握り締め、俯いたままでファフが言う。しばし黙って彼女を見つめ
ていた少年だったが、呆れ顔で溜息を一つ吐き出した。
「ったく、何を言い出すかと思えば」
クベルの手が、少女の頭をくしゃりと撫でる。
「ファフ。俺が嫌々、あるいは仕方無しに犠牲になってるように見えるか?」
彼の言葉に、ファフはおずおずと顔を上げて少年の表情を窺う。そこには、いつも通り
の彼の微笑があった。
一瞬笑顔が戻ったファフだったが、またすぐにその顔が曇る。
「でもでも、やっぱり……ほら、わたしこの通り、人間じゃないから……」
角をつまみ、尻尾を揺らす彼女に、クベルはもう一度その頭を撫でる。
「何言ってんだ。今さらそんなこと気にするくらいなら、初めからお前とこうして付き合
ったりしないよ。俺は俺の意思で、ファフと一緒になるんだからさ」
言っている途中で恥ずかしくなったのか、クベルは台詞の最後の部分で頬を染め、彼女
から顔をそらす。だが、ファフには十分だった。
「クベル……。うん。……えへへ」
ファフは目の端に涙を浮かべたままクベルに抱きつき、彼の胸に頬をすりよせる。そん
な少女を少年は優しく抱き返し、共に山向こうの空を見つめた。
青い空に一つ、竜の形の雲が流れる空を。
「……そろそろ戻ろうか。あまり遅くなると長老が心配する」
いつしか傾きだした太陽を見上げ、寝転んだままのクベルが呟く。ちょっと休憩したら
すぐに戻るつもりだったのが、随分と長居をしてしまったらしい。
「ん……にゅ……?」
彼の隣でうとうとしていたらしいファフが、可愛らしい声を漏らす。体を起こした彼女
は大きく翼を伸ばし、動かした。ばさりと空気が鳴り、風が草を揺らす。
と、同時に彼女のおなかがくぅ、と鳴った。
「あ……」
一瞬で可愛らしい顔が朱に染まる。おなかを押さえる少女に、クベルは笑いかけた。
「はは、そういえば昼飯抜いちゃったな」
彼女につられたわけでもないが、クベルも空腹を感じていた。今の今まで忘れていたの
は、彼女と過ごす時間で満たされていたからだろう。
「戻ったらちょっと早いけど夕食にしよう。ファフも食べていくだろ?」
「うん!」
元気よく答えるファフに、クベルは笑う。立ち上がり、歩き出した彼の背後から、竜の
少女の声がかかった。
「ね、クベル」
「どうした?」
振り返った彼に、ファフは真っ直ぐな視線を向けている。思わず言葉を飲み込むと、彼
女は静かな声で、しかしはっきりと言った。
「さっきの言葉……嬉しかった。お願い、どんなことがあっても、ずっと側にいてね」
「え? あ、ああ」
どこか意味深な言葉に、クベルは曖昧に頷くことしかできなかった。それでもファフは
満足したのか、笑顔を浮かべて彼に駆け寄った。
来たときと同じく、手を握りクベルを引っ張るように歩き出したファフに、彼は問いか
ける。
「いまの、どういう……?」
だが、竜の少女は笑顔を浮かべたまま、それに答えることは無かった。かすかな疑問を
胸に抱きつつも、クベルも重ねて問うことは無く、二人はゆっくりとした足取りで下山の
道を歩き始めるのだった。
―――――――――――――
クベルとファフの散歩の日から、既に十日。あっという間に時は過ぎ、儀式の日がやっ
てきていた。
あの山への散歩の日以後、ファフは村に姿を見せなかった。彼女は彼女で、母親から守
護者としての役目の継承のためにいろいろあるようだ。夕食を共にしたときに、彼女自身
が残念そうに語っていた。「さびしい?」と聞かれて思わず「そんなわけあるか」と返し
たのが、もう随分昔のような気がする。
「……。時間か」
ノックの音にクベルの意識は現実に戻される。
戸を開けると、長老をはじめとした村の人間が数人、外に立っていた。皆一様に緊張し
た面持ちで、戸を開けた少年を見つめている。
「クベル。準備はよいか」
長老の短い言葉に、彼は無言で頷く。いつもより優に三時間は早く起きた彼は、昨晩の
うちに村人が持ってきてくれた儀礼衣を纏っていた。
丈の長い純白のローブに、白のケープ。漆黒の髪を覆い隠すヴェールも、同じく一点の
染みもない白。見ようによってはドレスのようにも思える衣装は、かつて荒れ狂うドラゴ
ンを鎮めるために生贄の花嫁を捧げたという伝承からきているらしい。
もちろん、それは過去の話であり、現在村を守護する竜は生贄など望んではいない。そ
れでも村はかの竜の庇護を得るために、竜は精となにより伴侶を得るために、この儀式は
続けられてきたのだった。
皆、何かしら思うところはあるのだろう。クベルを見つめるその顔には、複雑な表情が
浮かんでいる。
クベルは彼らの顔をそっと見回し、胸の前で手を握ってから、静かに口を開く。
「行きましょう」
雪原を思わせる白の中で、胸元に掛けられた大きな紅玉の首飾りと彼の緑玉の目が鮮や
かに輝いている。いつもとは言葉遣いこそ違うものの、その声の響きは、普段どおりの彼
であった。
「うむ。では皆のもの、出発じゃ」
装飾の施された輿の真ん中にクベルが座ると、男達が担ぎ上げる。列の先頭に杖を持つ
長老、その後ろには松明を掲げた男二人が続き、さらにクベルの載った輿、そして竜への
貢物をもった女性たちが最後尾を占める。
しずしずと村の中を歩く一団に、畑仕事をしている村人達も作業の手を止めて頭を下げ
る。クベルも、長老も列を成して歩く一団も、通り過ぎる村人も、皆誰一人言葉を発しは
しない。
快晴の空から降り注ぐ陽射しとは裏腹に、張り詰めるような気配を纏った一団は村を出、
竜の住む山への道を進む。彼らのただならぬ雰囲気を察してか、あるいはこの一団の向か
う先に待つ存在が何であるかを知っているがゆえか。村を出た後に魔物が姿を見せること
は無かった。
山の麓、石造りの門で閉ざされた山道の入り口で一行は一度足を止める。門の両脇に整
然と立つ三対の柱にはいずれもドラゴンをデザインした装飾が施されている。
「偉大なる守護竜よ。古からの盟約に基づき、供物を捧げに参りました。どうか、この門
をお開きくだされ」
長老の声が響き、それに答えるように石の門が重々しい音と共に開く。ごくり、と誰か
がつばを飲み込む音がクベルの耳に届いた。緊張が伝染したのか、それとも開いた門の先
から流れ込む異界の気配に反応したのか、クベルは無意識のうちに息を呑んだ。
再び歩き出した一行は、先ほど以上の緊張に包まれながら道を進む。辺りの景色こそご
く普通の森であったが、この山には神域といっていいほどの気配が満ちていた。
やがて一行は山の中腹、開けた場所へとたどり着く。
巨木がぐるりと取り囲む円形の広場の真ん中には、大きな祭壇があった。長きに渡り鎮
座していただろうそれは、しかし予想に反して古ぼけた様子は無く、荘厳な姿をクベル達
の前に晒している。台座や階段には先ほどの門と同じく、ドラゴンの形をイメージした紋
章が彫りこまれていた。
クベルを乗せた輿が静かに下ろされる。それを合図に壇上へと続く階段脇に松明の火が
移された。女達は手にした絹や果物などの供物を備え、祈りを捧げる。
すべての準備が整うと、長老はクベルに向き直り、口を開いた。
「クベル。しっかりな」
「はい」
一言二言の短い会話。長老が道を空けると、クベルは輿から一歩、足を踏み出す。無言
で見守る村人の中、篝火が煌々と燃える階段を一歩一歩上り、壇上にそっと膝をつく。
胸の前で手を組み、目を閉じる。それを見届けた村人達は一人、また一人と山を降りて
いく。最後に残っていた気配――おそらくは長老だろう――が消えてもなお、クベルは目
を閉じ、その時を待っていた。
どれくらいの時間が過ぎただろうか。クベルの耳は、空から響く聞きなれた音を捉えた。
規則正しく大気を打つ翼の音。段々大きくなるそれは、こちらに近づいてくる。
辺りに巻き起こった風が、ヴェールをはためかせる。
「汝、我が供物として捧げられしものか?」
若い女性の声が響く。重々しいその声は、威圧感となって肌にのしかかる。
「はい。我、クベル=ユングバルの身と魂、偉大なる守護竜に供物として捧げます。古の
約定によりて、どうか我が身のすべてと引き換えに、庇護と祝福をお与えくださいますよ
う……」
目の前に立っているであろう存在が放つプレッシャーに、本能的に萎縮してしまいそう
になるのを堪え、クベルは答えた。
深く頭を垂れ、彼は身じろぎ一つせず祈りを捧げる。
「……」
声の主は沈黙したまま答えない。永遠にも思える時間。
だがそれは、不意にくすりという笑い声が漏れることによって終わりを告げた。
「……ふっ、くく……っ。ぷ……あはははは! やっぱり無理! 頑張ったけど無理!」
堪えきれなくなったのか、声の主は心底おかしそうに笑う。その笑い声に先ほどまでの
緊張は一発で、欠片も残さず消え去ってしまった。
「そんなに笑うこと無いだろ。こっちは真面目に儀式をやろうとしてたのに」
笑われ、少しばかり腹を立てたクベルは思わず文句を口にする。目を開けた彼の前には、
人の似姿を真紅の鱗で包み、翼と尻尾、そして雄雄しき角を持ったドラゴンの女性が立っ
ていた。
「それを儀式の主役であるお前がぶち壊したら台無しじゃないか、ファフ」
まだ収まらないのか、お腹を押さえて笑い転げるドラゴンの女性――ファフに、クベル
はじとりと目を向ける。
「いや、私もちゃんとやろうとしてたんだよ? 形骸化してるとはいえ、母様にもちゃん
としなさいって言われたから。でも、でも……クベルが花嫁みたいなカッコして、大真面
目に祈ってるのみたら……くっ、あはははは!」
途中でぶり返してきたのか、再び笑い転げるドラゴンをクベルは真っ赤な顔で睨む。
「う、うるさいな! 仕方ないだろ! これが儀式の衣装なんだから!」
「あははは! はー、いや、似合ってるよクベル! もうちょっと髪が長かったら『お嫁
さん』で通るくらいにね。ぷっ、くくく……」
「くっそ……。絶対笑われると思ったんだ、この格好……」
あまりに笑いすぎて口の端から炎を漏らすドラゴンを恨めしげに見つめ、クベルは呟く
のだった。
それからしばらくして。ようやく落ち着いたファフに、クベルは改めて向き直る。
「にしても、そっちも随分印象が変わったな」
「んー。まあそうかも、ね」
自分の体を見下ろすファフ。十日ほど前は十歳前後の幼い姿であったが、今クベルの前
に立つ彼女は彼と同じか、一つ二つ年上に見える。成長しても無邪気さを面影に残す表情
や真紅の髪と鱗などから、クベルは彼女が間違いなくファフであると認識してはいた。
が、彼の記憶の中のファフの姿と、目の前の女性らしい体型を持つ存在とのギャップが
無性に心を乱す。
それに気付いているのかいないのか、ファフは尻尾を弄びながら言う。
「母様から守護竜の役目を正式に引き継いだ時に、一緒に力とか知識も貰ったの。その影
響みたいね」
彼女自身も変化した自分にまだ馴染みきっていないらしく、角や耳を触ったり、翼を確
かめるように動かす。それから一歩、クベルに近づくと彼の顔を上目遣いで覗き込みなが
ら尋ねた。
「……どうかな? ちょっとは女の子らしい体になったと思うんだけど。 クベルの好み
に合ってる?」
「はっ!?」
肌が触れるほど間近に迫ったファフに思考を停止させられ、彼女の台詞で強制的に意識
を戻されたクベルは思わず変な声を出してしまう。
それに構わず、彼女は鱗に包まれた手を胸にあて、大きさを確かめるようにむにむにと
動かした。
「前よりもおっぱいも大きくなったんだけど……、もっと大きい方がいい? それとも、
小さい方がよかった?」
「いや今のままで十分だと思っ……って違う! いきなり何を」
思わず本音を漏らしそうになるクベル。首を振って思考を落ち着けようとしたが、不意
打ちを喰らって半ばパニック状態の頭を冷静にするのはなかなかの難題のようだった。
「え? だってこれからずっと一緒に暮らすんだもの。でもよかった。今の姿はおおむね
正解みたい」
にこり、と微笑むファフ。その笑顔は女性らしい柔らかさと、クベルの良く知るファフ
の優しさとに満ちていた。落ち着けようとした頭が、一瞬で再度沸騰する。
しかし、これも受け継いだ知識とやらの影響なのだろうか。妙に積極的なファフにクベ
ルはペースもつかめず、一方的にやられっぱなしである。
(……勝てねえな、こりゃ……)
最早諦めの色が滲み出した心中を押し隠し、クベルは言う。
「で、まあ俺の好みとかはまあ置いておくとして。さっきの儀式の続き、答え貰ってない
ぞ」
真面目な顔を作り、ドラゴンに向き合う。当たり前だが、彼は別にファフの加護をきち
んと受けられるようにしなくては、というような義務感から口にしたわけではない。単純
に自分に不利な話題を変えたいというものから出た発言であった。
クベルの言葉にファフも先ほどの儀式が中断したままであったことを思い出したのか、
目を瞬かせる。
「あ、うん。そっか。そうだよね」
「まー、一応『供物』の役は果たさないとな。で、答えは?」
クベルはそれほど重要とは思っていない役割を持ち出す。とりあえず儀式の話題にして
体勢を立て直そう、と考えた彼の目論見は、しかしあっさりと崩れ去った。
「って、何を……? ちょ……!」
なぜなら、契約の言葉の代わりにファフが顔を近づけ、クベルの唇を塞いだからだった。
一瞬何をされているのか分からなくなり、唇にやわらかく、熱い感触を感じて今自分が
このドラゴンの娘とキスをしていると気付く。
「……んっ……ちゅぅ……」
半ば反射的に顔を離そうとするものの、頭はファフの腕でがっしりと固定されびくとも
しない。見開いた目には瞳を閉じた彼女の顔が大きく映る。
抵抗も出来ないうちに、ファフの舌が伸ばされる。口内にするりと侵入したそれは、溶
岩のように熱く、触れ合うたびに業火のように彼の思考を焼き尽くしていく。
「んん……っ、……ぢゅ……んぁ……」
いつしか彼も自ら舌を伸ばしていた。ファフは嬉しそうに目を細め、舌を絡めてくれた。
人知れぬ森の奥、神域の祭壇の上で、しばし供物の少年と守護の赤竜は抱き合い、口付
けを交わし続ける。
やがて顔を離したファフは指でそっと唇を拭い、いたずらっぽい笑みと共に言った。
「これが答えじゃ、ダメ? ちゃんと言葉にしようか? 『貴方が全てを捧げてくれるな
ら、私も全てを捧げ、祝福を与えます』。――もちろん、村の守護もちゃんとするけどね」
「ま、それでよしとするか」
二人はファフの母竜や、村の長老に聞かれたら怒られそうな台詞を言い、笑いあう。何
はともあれ、竜の少女は新たな守護役となり、供物の少年を代償に村はその庇護を得るこ
とになった。
しかしまあ、当人たちにとってはそれはあまり重要ではないのかもしれない。彼らにと
って大切なことは、愛するものと一緒にいられるかどうかなのだから。
「それじゃ、お互いとりあえずやらなきゃいけないことは終わったし……さっきの続き、
しよ?」
ファフが尻尾を揺らしながら、クベルに抱きつく。ストレートなおねだりに一瞬で顔を
染めた彼だったが、今更拒むことも無いと腹を決める。そもそも彼も愛する女性との交わ
りを求めていたのだ。
「ああ、しようか」
クベルはファフの背中に回した手で、そっと彼女の翼を撫でる。二人はもう一度唇を触
れ合わせ、微笑みあった。
ファフがゆっくりとクベルを押し倒していく。彼の纏う儀礼衣が床に花のように広がる。
「それじゃ、今だけは守護竜とか供物とかの役目も忘れて……夫婦としての最初の契りを、
始めましょ?」
「ん……」
真上から顔を覗き込まれ、少しだけ恥ずかしさを感じながらクベルも頷く。彼が手を伸
ばし頬を撫でるとファフは気持ちよさそうに竜の瞳を細めた。
頬からうなじ、首元と動かされた少年の手が、硬い鱗に覆われた彼女の胸元で止まる。
「あ、鱗邪魔だよね。ちょっと、待ってね」
彼の意図を察したファフは何かを短く呟きながら胸を撫でる。変化の呪文の類なのか、
衣服のように胸を覆い隠していた鱗が消え、人と同じ肌がクベルの目の前に晒された。
「さ……いっぱい、触ってね」
羞恥の中に隠しきれない期待を滲ませて、ファフが言う。彼は言葉の代わりに手を動か
し、緩やかな曲線を描く乳房に触れた。
「ん、あ……っ」
ファフの口から、短い息が漏れる。
絹のように滑らかで、暖かな手触り。汗のせいか、しっとりと湿った感触が手の平に伝
わる。大丈夫か、と目で問いかけるクベルに、ファフもまた、平気と瞳で答える。
彼女の答えを受け、クベルは手を動かし始める。初めはそっとその表面を撫でるように、
優しく。
「くふ……んっ……。ふぁ……それ、気持ち、いい……」
敏感なのか、彼の手が動くたびにファフは甘い吐息を漏らし、体を震わせる。耳をくす
ぐる彼女の声と、肌に触れ合う手から伝わる熱が次第にクベルの理性を蕩けさせていった。
「もうちょっと強くするな……」
「う、ん……」
少しだけ不安そうな顔を浮かべたファフだったが、心配はすぐに快感にかき消されたよ
うだった。先ほどよりもしっかりと肌に触れ合う手に、彼女の体が大きく跳ねる。
「ふぁ、あ……っ! すご、あひゅ……おっぱい、すごい……っ! やぁ、だめ、ちくび、
だめぇ……!
だんだんと激しさを増す手の動きに、ファフは尻尾をくねらせ、目に涙を浮かべて快感
を貪る。彼が責めるたびに乳房は両手の中で形を変え、勃ち上がった乳首をつねられると
背の翼が風を起こす。
快楽の波に翻弄されるドラゴンは少年に跨ったまま、目を閉じ、唇をかみ締めて彼の愛
撫に身を任せていた。
だがそれにも限界はあったようだ。やがて堪えきれなくなった彼女は身をそらし、声に
ならない叫びをあげる。
「ん……ふぁ……ぅ……。きもち、よかったぁ……」
くたりとクベルの上に倒れこみ、彼の耳元で囁く。まだ夢見心地のドラゴンは、熱を宿
したままの瞳で少年を覗き込む。
「次は……私の番だね……」
クベルの額にキスをし、身を起こしたファフは再度呪文を唱え、股間を覆う鱗を消す。
「……そんなにじっと見られると、恥ずかしいよ……」
露になった秘所に思わず視線を向けた少年に頬を染めつつも笑いかける。
「だからね、クベルも脱がせてあげる……」
彼女はクベルの纏った儀礼衣の留め金を外し、そっと脱がせていく。鋭い爪を持つ己の
手で、万一にも愛する少年を傷つけたりしないよう、細心の注意を払って指が動く。
やがて隠すものは取り払われ、クベルのモノが姿を現す。彼のモノは先ほどの行為で既
に硬く勃ち上がっていた。初めて見るそれに、彼女は目を見開き、声を漏らす。
「……あ、大きい」
「……いいから」
ファフの呟きにクベルは顔をそらし、怒ったように言う。だがそれが照れ隠しなのは火
を見るよりも明らかだった。
「嬉しい。私で、こんなに大きくしてくれたんだね」
愛しげにいい、そっと指を這わせるファフ。不意打ち気味の快感に思わず漏れそうにな
った嬌声をクベルはかみ殺す。
その反応を見逃さなかった彼女は、さわさわと肉棒を愛撫し始めた。
「あ、私の手、いい? ……ふふっ」
「……くっ……う」
人とは違う感触の手でクベルは未知の快感を与えられ、必死で耐える。気を抜けば一瞬
で果ててしまいそうな強烈な快感ではあったが、彼は全精神力とプライドを掛けて堪えた。
「……我慢しなくてもいいのに」
「メインが控えてるのに、ここで終わっちゃお互い嫌だろ?」
愛撫の手を止めたファフに、クベルは汗を浮かべたまま笑って返す。
それに頷いたファフは、恥じらいと幸せを共に感じさせる表情でクベルに囁いた。
「……じゃあ、クベル。私のこと、貰って、ください……」
「ああ……」
クベルの答えに笑みを咲かせ、彼女は少年の上に跨ったまま、ゆっくりと腰を下ろして
いった。興奮に濡れそぼる秘所が肉棒と当たり、彼女は快感に声を漏らす。
「ん……っ……」
敏感な部分が触れ合う感触に体を震わせたのも一瞬、ファフの秘所はそそり立つクベル
のモノをゆっくりと呑み込んでいく。
入り口から少し挿入っただけで、強烈な締め付けがクベルを襲った。
「ぐ……」
先ほど手でされていたときとは別の、灼熱の炎のような快感が彼を直撃する。歯を食い
しばって耐え、さらに奥へとモノを進めていく。
途中、何かが当たりそして貫く感覚。
「……う、く……っ……!」
悲鳴を上げたファフと、彼女の秘所から赤い液体が垂れた事でクベルもその意味に気付
いた。
「ふぁ、ファフ……!」
「へ、へいき。ドラゴンはつよいこ、だから。……クベルも、気に、しないで」
罪悪感と不安で動きを止めた少年に、ドラゴンは涙を浮かべつつも笑みを見せる。その
健気さが愛しさとなって、彼の胸を満たした。
「無理しないで。一緒に、気持ちよく……な?」
指で彼女の涙を拭い、クベルが語りかける。その言葉にファフは目を細め、こくりと頷
いた。
やがて最奥まで到達し、二人は抱き合ったまま、しばし動きを止める。腕の中に愛する
ものがいる幸せ、そして今、一つになった幸せをかみ締めながら、二人は視線を交わす。
「ね。もう、大丈夫だから……」
「分かった……。きつかったら、言えよ?」
「うん」
彼女の言葉に、少年はゆっくりと腰を動かし始める。始めはほんの少し動いては彼女を
気遣うように顔をのぞき、そしてまた少しだけ動く。一方でファフもまた、彼を気持ちよ
くしようと、腰を動かす。
ぎこちないながらも、お互いを思いやる優しさに満ちた交わり。
しかし次第に、その動きは快楽を求め、相手に快感を与え、己も快感を味わうモノへと
変わっていく。
「やっ……ふぅ、ん……っ! あああっ……!」
ゆっくりとした動きはいつしか荒々しいものとなり、周囲には肉を打ち付けあう音と、
くぐもった水音、そして少女の嬌声が響く。
「あっ! ひ、ぁ……っ! ん……はぁ……あ……っ!」
汗と涙が宙を舞い、伸ばされた手が彼女の胸に、彼の腰にまわされる。
「ごめん、ね……私、もう……が、我慢……でき、な……!」
かすれた声での呟きと共に、理性が焼ききれたファフは貪るように腰を動かす。
「あっ、く……、ふぁふ、ファフぅ……っ!!」
魔物の本能に支配され、ただ己を求める雌と化したファフに、クベルも無我夢中で応え
る。いつしか彼もまた、本能に支配された獣となっていった。
荒々しくも幸せに満ちた彼らの行為は、いつ終わるとも無く続く。歓喜の雄たけびと嬌
声だけが、周囲の音を染め上げていく。
「うあ……っ、あ、あああああああああぁぁぁぁぁ……っ!」
「く、ふぁ……、あああああああああぁぁぁぁぁん……っ!」
それからどれほどたった頃だろうか。二匹の獣は一際長い叫び声を上げ、そして糸が切
れた人形のように、折り重なって倒れこむ。
抱き合った二人の影はそれからしばらくの間、離れることはなかった。
―――――――――――――
「おとーさーん!」
漆黒の髪を風になびかせ、幼い少女が翔けてくる。大空を自由に舞う翼は、炎よりも紅
く燃える色。
ばさりと大気を打ち、地に舞い降りた少女は笑顔で待つ父親の元に、一目散に走ってい
く。見る見るうちにその距離は縮まり、彼女は全身でぶつかるように父親の胸に飛び込ん
だ。
「おっと」
父親は竜の少女を受け止め、その体を抱きとめる。腕の中で楽しそうにきゃっきゃとは
しゃぐ娘を見つめ、父もまた笑顔を浮かべた。
「聞いて聞いておとーさん! ミミル、今日は向こうの山まで行ってきたよ!」
「どれどれ……。おお、随分遠くまで行ける様になったな」
「うん!」
感嘆の声を出す父親に、ミミルという名のドラゴンの少女は誇らしげに胸を張る。
「それでね、明日はね、もうちょっと遠くの山まで行くの!」
「そっかそっか。がんばれ。だけど無茶はしちゃだめだぞ。父さんも母さんも心配するか
らな」
腰を落として視線を合わせ、父親は優しく言い聞かせながらミミルの頭を撫でる。彼女
は頷き、気持ちよさそうに目を細めた。
「ミミルももうすぐ百ね。そろそろ人界に降りて学んでもいい頃」
彼の背後から、女性の声がかかる。振り向いた父親の目に、妻の姿が映った。娘と同じ
真紅の鱗を持つ、ドラゴンの女性。夫と娘を見つめるその瞳には、深い慈愛の色がある。
「もうそんな歳か。子どもはいつの間にか大きくなるな」
娘を抱き上げつつ、彼は麓を見下ろす。その視線の先、はるか下界には、美しい緑に囲
まれた、小さな村があった。
「ねえねえ! おかーさん! ミミル、村に行ってもいいの?」
「ええ。もう少ししたらね」
「やったあ! ……待ち遠しいな〜。村って、人がいっぱいいるんでしょ? お山には無
いものもいっぱいあるんだよね!?」
「ああ、そうだ」
父親の言葉に、ドラゴンの少女は期待に胸を膨らませる。物心ついてから今まで、山以
外の世界を知らない彼女にとって、外界は好奇心を刺激するものなのだった。
「わあ! 楽しみだな〜! ちょっと空から村見てくる! それくらいはいいでしょ?」
頷く母親を見、彼女は顔を輝かせる。いてもたってもいられなくなったのか、ミミルは
父親から離れて駆け出した。
「夕飯までには戻れよー!」
大声を張り上げる父親に、「はーい!」と元気な声を残し少女は斜面を駆け下りていく。
断崖に差し掛かる寸前、彼女は大地をけり、大きく翼を広げて空へと上っていった。
「あの性格、誰に似たんだか」
「さあ?」
苦笑する父親に、肩をすくめる母親。彼女はそっと胸元に手をあて、祈るように呟いた。
「願わくはあの子にも、素敵な出会いがありますように……」
寄り添う夫婦の視線の先では、子竜が気持ちよさそうに大空を舞っていた。
――『竜婚礼記』 Fin ――
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